2008年5月6日 星期二

台中の休日

台中の休日(Holiday in Taichung)
久しぶりに台中に泊まった。交通が便利になってから、日帰りでも疲れなくなったので、台中に泊まることがほとんどなくなったのである。妹たちの住所が郊外に移って車がないと出入りが不便になったせいもある。
用事が簡単に終わったので、この機会に懸案の眼の診断と、長いあいだおしゃべりしたことがない従弟を訪ねた。眼は、最近とみに視力が衰え、白内障の進み具合が気になるので、未だに現役で診ているJ君に検査してもらうためだが、瞳孔を拡大する必要があるため、普段は十分な時間がとれないから、延び延びになっていたのである。
J君の診療所は台中駅に近い緑川の畔に、もうかれこれ50年開業している。一度などは、台北からの帰りに車窓から飛び込んだ石炭のかけら(石炭を炊く蒸気機関車時代だった)が角膜に刺さってとても痛かったが、汽車を降りてすぐ彼の診療所にかけこみ、つまみとってもらって事なきをえた。手で擦らなくてよかったよ、と言ってくれたのが昨日のように思い出される。
診察の結果、白内障は60%程度、普通なら大抵手術しているところ、まあ、後しばらくは大丈夫だという。彼自身も毎年アメリカで検査してもらっているが、まだ手術していない。診察や処置には差し支えはないという。因みに彼の娘婿は有名な眼科医で網膜の手術のベテラン、アメリカ・ミシシッピ在住。また、眼底検査の結果も少し動脈硬化がある程度だが概ね良好。結論を言えば、年相応だがおおむね健康という嬉しいことになった。最近の大病院の医者は、人数と処方する薬、それに検査項目ばかりに関心があって、患者の言うことは聞かないのみならず、顔さえ見ない傾向がある。そんなこと知ってるよ、と言わんばかりの態度なのである。私がつけた病名は「優等生症候群」。だから親身に聞いてくれ、説明してくれる医者はよけいありがたい。
「僕は濾過器だよ。簡単な処置だけして、あとは大病院へ回す」と達観している。だから保険も見ない。
久しぶりで会った従弟は、中学で一年あとだが、本当は二、三ヵ月しかちがわないし、学寮や東京でも一緒だった時期が長かった。千葉にいた頃、夏休みに一ヵ月くらい泊まり込みで来て、二人で一升のピーナッツを平らげた記録もある。「読書の習慣と楽しみを教えてくれたのは兄さんだったよ。古典音楽も」と、僕が忘れてしまったことを話してくれた。僕がまだ台中にいた50年代にはよくダンスホールに誘ってくれた。酒飲みではなかった彼はダンスが唯一の楽しみだった。それが最近はカラオケ、それも演歌に凝っているという。歌詞に結構心を打つものがあるから、クラシックとはまた一味ちがったものがあり、ストレス解消の新しい方法を見つけたという。患者数は一日約30名、完全休診日や半日休診日をもうけてあるし、一回の診察は2時間程度にしてあるから、気楽にやっている。「家庭医学科」という看板を掲げているが、「要するに昔の開業医の続きだよ」という。「検査漬けの時代だが、どうしている」と聞くと、「なに、勘できめて、疑問があったら検査にまわすよ。収入は減るが患者にはその方が楽だね。不必要な検査が多すぎるよ。患者の目をじっと見て、言うことに耳を傾けたら半分くらい分かってしまうさ。第一、それだけで患者は半分治ってしまうのにね。{はい、検査、来週また結果を見にきてね}なんておかしいよ」と中々手厳しい。内科が多いので薬も出すから薬剤師も雇っているし、パソコンも使っている。パソコンを使う方がよほど忙しくて、本を読んだりカラオケへ行ったりする時間が削られるのがもったいないという。

ゴーストタウンになりかけている台中
台中は台中盆地の真ん中にできた街だった。戦前の人口6万人、道筋は整然とし、きれいな水を湛えた柳川の柳並木と、ブーゲンビリアー(日本名いかだかづら)が生い茂る緑川の2つの川に囲まれたこじんまりした街で、商店街もまとまっていた。その中心地がゴースト化しようとしている。いや、もう半分ゴースト化している。
従弟の診療所は中正路のはずれにあるが、彼が診療している間、大通りに沿って歩いて見た。台中港路の起点と中華路の間ほぼ真ん中になるその地点は、台中市の入り口で高速道路に通じるから、大型バスが盛んに出入りしているが、道路に面した店はと見ると、東側はシャッターを下ろしている店が約半分、西側はもっと多く、ほぼ60%に達する。店舗貸しますとか、売りますという張り紙をしている店も少なくない。昔日の面影はもうない。
市の中心は迅速に西の新開地区に移ってしまった。中心地の彰化銀行本店あたりはもっとひどいそうだ。表面上まだ繁栄しているが、実質は家賃の大幅下落に現れている。ある有名な靴チェーンの家賃はかつて月30万元だったのが今や5万元になった。それでも店は赤字の月が多いという。かつて台中銀座の称があった中山路(すずらん通り)を歩くと道が狭いだけに一層その凋落ぶりがひしひしと身に迫るそうだ。一福堂、太陽堂、美珍香、清水本店などの有名店がひしめいていたところだけに、哀れさを感じる。
台中はもともと人口に比して広いバックグランドを持っていた。消費人口は旧台中州をカバーしていた。市が西と南へ伸びていった原因は、店舗の大型化と住民の移動だった。外地の客は需要に追いつかない交通事情のせいもあって、車で台中に出てくるのが便利になった。必然的に駐車の問題が発生する。駐車場がない中心部は敬遠され、客足が落ちる。あとは悪循環である。かくして、旧市内はゴーストタウン化への道を歩むほかないようだ。店舗を1軒もっていれば左団扇で暮らせた時代は終わった。私たち「老台中」も友人、兄弟を訪ねるのに、アメリカ並みに車で連れて行ってもらうか、タクシーを利用するほかない。私は台北ではめったにタクシーに乗らないし、実際それで不都合もないのに、台中では一寸した用件でも大変コストが高くなった。結果、よほどのことか、誰か車で行く以外は、故郷離れが加速している。