2008年8月8日 星期五

ミレー展
5月31日から始まったミレー展が連日満員の盛況を呈している。6月のはじめ、朝早く行ったのにすでに入場券を買う人と入場を待つ人が長蛇の列をなしていた。独りで行ったから2回並ぶことになり、諦めて帰ってきた。あとで知ったのだが、65歳以上の人は切符を買えば並ばなくても優先的に入場できるし、一人だけ付き添いで一緒に入れる。もちろん付き添いも切符がいる。
先日、娘が夜ならば少々並んでも大丈夫でしょうというので夕食後おもむろに出掛けた。あいかわらずの盛況。入場料が250元というのもまあまあだし、シニアーは半額の120元だった。台北にこんなに多くの美術愛好者がいたのかといぶかったが、いないよりは確かにいゝのだから文句を言う筋合いでもない。夏休みで学生が多かったのもいい現象にはちがいない。ただ、展示館がいささか手狭だった。これだけ来場するとは主催者も想像していなかったのかも知れない。
ミレー展といっても実質はミレーの作品は17幅だけであとは同時代のコロー、ルソーのものだった。もちろん、ミレーの代表作・晩鐘と落穂拾いだけでも十分見る価値はあったが。晩鐘などは世界を一廻りしてようやくオルレー美術館に落ち着いたいきさつがある。何度も転売されてニューヨークのメトロ美術館にあったのをフランスの富豪が大枚を払って買い戻したストーリーは感動ものであった。人々はこの二枚の絵の前に集まっていた。ルーブルを訪れる人がモナリザの部屋に集まるのと同じように。
しかし、落穂拾いどころか、穀物の収穫さえ見たことがない世代には落穂拾いが理解出来なかったらしい。こういう声を聞いた。「ずいぶん貧乏だったんだね」彼ら、霞を食べている雲の上の連中は、落穂拾いが餓えをしのぐ手段に見えたらしい。実は、私たちの年代で田舎に育った人は喰うに困らなくても落穂拾いによくでかけた。拾ったものは鶏やアヒルの餌にしたり、子供はそれを焚き火の一角で手作りのポップコーンにしていた。基本にあるのは「もったいない」の精神だった。

夜行ったのは正解だったようで、少なくとも小学校低年の団体がいないだけいい。ただ、解説の人でもガイドホンでも人名や地名を中国語読みにするのがなじめない。ミレーが「米勒」になるのはいいとしてバルビゾンが「巴比松」だともう分からなくなる。
例によって、もらったパンフレットの日本語を読んでみた。大新聞社が主催し、連日超満員の入場者がいる催しにしては、日本語がおざなりである。どこかの大先生に依頼したのだろうが、あんまり恥を曝さないで欲しいものだと、いつものことながら思う。

ミレー展

2008年8月3日 星期日

お手並み拝見

お手並み拝見
昨年、台北駅地下街で中、日、英3カ国語で書かれたパンフレットを入手して大いに愉しませてもらったが、あれは翻訳機で訳したものに違いないという結論にたっした。
Blog には翻訳機能が付いていることを発見したので、私が書いた文を翻訳させてみたのが以下の文である。
  原文: 冬、台灣に来る日本人観光客がよく聞く質問の一つに、「黒輪」がある。「黒輪」って何ですか? 食べ物ですか? 少し中国語を勉強した人は「ヘールン」と発音してみるが、さっぱり分からない。実は、これは台湾語で発音漢字を当てたもので、台湾語で読むと「オーレン」になるのである。どこかで聞いたような言葉だと思われる方もいるだろう。そう、「おでん」なのである。台灣語には「で」の発音がないから、近似音で「おれん」と聞き、それに台湾語の黒=オーと輪=レンを当てて「オーレン」をあてた。その字も発音もすっかり定着してしまった。

  中国語訳; 在冬季、日本観光客来台灣是一個問題、我経常聴到的一個「黒環」。「黒輪」是什麼 ? 食物是什麼? 誰的人学習中文、有点「埃爾蘭」嘗試宣告我不明白。其実這是立場台湾語韓元的讀音的漢字‘欧任’。某処在這我聴過的話一様、相信我 。
以下略。

  英語訳;  In winter ,Japanese tourists coming to Taiwan is a question。 I often hear one of the “black ring”。 “Black ring”, what?  Food? People who study Chinese , a little “herun” to try to pronaounse and I do not understand.
(以下略)

さて皆さん、Google君の翻訳を採点して下さい。

2008年8月2日 星期六

かき氷――次は

かき氷――次は?
台北永康街のフルーツ・かき氷は、名物の一つになったが、ことしは大盛りのメニューで何度もNHKに取りあげられて一層評判が高くなった。一時は行列が付近の店の前まで伸びて、営業妨害になるので、店から抗議があって、店先は開けるようになったが。
もともとは、豊作で有り余るマンゴーを利用して、かき氷の上にたっぷり載せたのが当たったわけだが、今年はフルーツの種類を増し、量も多くして4人でも食べられますをキャッチフレーズにしたら、また当たった。最近は模倣する店が増えてどこでもあるようになったが、「通」はやはりあの店でないとねーとこだわっている。模倣品の中にはミクサーで氷を粉砕した上に蜜せんるいをちらしたインチキ品もあるから要注意だが。
永康街は食べ物の街と化した感がする。
永康街で食べ歩いてお腹一杯になった若いカップル; 
彼女: 「これからどこへ?」
かれ: 「そうだなあ、ピンクアンへ行こう」
彼女: 「えっ、ピンクアン? 絶対行かないから・・・」
かれ: 「???」
かれはピンクアンとは、「氷館」、つまりかき氷屋のつもりで言ったのだが、彼女はどうやら「賓館」(やはりピンクアンと発音する、xxホテルの意味もある)と聞いたらしい。言い争っているうちにその「氷館」の前に着いた。
「ほら、今日もながい行列だよ。永康街まできてここへこない理由はないだろう」
半時間ぐらい並んでめでたく「大盛りかき氷」を二人で仲良くたべた。めでたし、めでたし。彼女、勘違いしたことで顔を赤らめたかどうか、伝わっていない。

2008年7月13日 星期日

07/10 「おれん」にも市民権を

冬、台灣に来る日本人観光客がよく聞く質問の一つに「黒輪」がある。「黒輪」って何ですか?食べ物ですか?少し中国語を勉強した人は「ヘールン」と発音してみるがさっぱり分からない。実はこれは台灣語で発音漢字を当てたもので「オーレン」なのである。どこかで聞いたような言葉だなあと思われる方もいるだろう。そう、「おでん」なのである。台灣語には’で‘の発音がないから近似音で「おれん」と聞き、それに台湾語の黒(オー)と輪(レン)をあてた。それが字も発音も定着してしまった、つまり立派な市民権を獲得したわけだ。
ところで、博多のレポートを見ていたら、博多では「うどん」を「うろん」ということが報じられていた。台灣でもうどんをうろんという人が少なくない。おでんをおれんというのと同じ伝である。
博多で「うろん」が通用しているならば、台灣でも「おれん」が正式な市民権を得てもいいではないか、と思った。 

魚がたべられなくなる日

魚が食べられなくなる日
燃料の高騰で、函館のイカ漁漁船が三日間休業するという。
イカ漁は一種独特な方法で、強烈な集魚灯でイカの群れを海面近くまで誘いだし、針に引っ掛けて吊り上げるものである。1945年夏、函館の漁師から聴いた話では、漁師一人で左右2本ずつ竿を持ち、交互にイカの群れの中に入れて引っ掛ける方法だったが、それを外すのが熟練のきわみだったという。現在の操業現場の映像を見ているとそのきっかけはローラーに巻きつけて引き上げるだけでよいらしい。だから、コストの大半は集魚灯用電気の発電燃料になったようだ。イカ漁は今が最盛期、その時期に休むのは理に合わないが、燃料が高くて漁に出れば出るほど赤字になるというのだ。素人考えでは高くなった分イカに上乗せすればよいではないかと思うのだが、ほかの魚の値段との兼ね合いもあって、そう簡単にはいかないらしい。あの、上がったばかりのイカの皮を剥いで手際よく細いそうめん状に刻んだ「イカそうめん」は函館随一の美味だった。冷凍物では絶対味わえないものだったが・・・本当に食べられなくなる日が来るかも知れない。
そういえば、先月蘇澳、南方澳へいったとき、天気が悪いのでもないのに、漁船がぎっしり停泊していた。燃料の高騰で、漁に出るよりは休んだ方が出費がすくないというのだ。台湾人は黙って休むが日本人は大騒ぎしてやすむ。
莫大なオイルマネーが世界中をかけめぐって、再びアラビアンナイトを出現させようとしている。魚も食べられなくなった庶民はどうなるのだろう?
                          08/07/07

2008年6月28日 星期六

おせっかいな・・・

1960年代、台湾から日本h留学したばかりの周英明氏に、一人の心やさしい日本人が言った。(周英明氏は金美齢氏の夫)

「お国は二つに分断されてお気の毒です。早く中国が統一して、ばらばらの家族が再会できる日がきますように」

同じような論議にその後何度も出会った。とんでもないおせっかいだということを言った人は知らない。いやそもそも中国と台湾が分断されて家族が一緒に生活できないなどとの認識が、この人たちの根底にある。当時の社会党委員長土井女子は、「台湾が中国に統一されるのを促進するため、北京へ行くという。この人は台湾の現状を何処まで知っていただろうか。一度でも台湾へ来て民の声を聞いたら、事実は「台湾人民は一日も早く中国と分かれることを願っている」ことが分かりそうなものだが。再び言う:「土井さんよ、とんでもないおせっかいだ」

日本が台湾を放棄して60数年、日本のインテリは年配の人を含め、台湾人に日本語が上手な人が多い現実を知らない。

2008年6月17日 星期二

バーゼルから

バーゼルから

○ Euro Cup 2008が始まった。
  今年の4年に一度のユーロカップは、スイスとオーストリアが共同主催する。その前夜祭が先日バーゼル  で行われた。バーゼル市内に突如4ヶ所の大スクリーンと中継所が出現した。4-500人は入る広場で  ある。座席は有料だが、立ち見席は無料。付近にはFanshopが記念品を売っている。   
  幸運にもスイスへ来て二年目にこのような盛事に出会うとは!しかも準準決勝以後の試合のうち、決勝戦  がオーストリアで行われるほか、バーゼルで三回試合がある。どうやら財布がかなり軽くなるのを覚悟し  なければならないようだ。

  おりにふれて報告しますので、中文が分かる方は直接
    
    http://shuchunjierong.blogspot.com/

を読んでください。

2008年6月7日 星期六

大山鳴動のあと

527 大山鳴動のあとで

大山鳴動してねずみ一匹を書いたのが三月末、これで安心と思ったのもつかの間、四月末に老人検診があって、GOT,GPTが再び上がっていると聞かされた。自分でも尿の色が濃いし、食欲があまりないことに気づいていたので、早速受診したら、
「内臓、特に消化系の精密検査をやりましょう」
といわれた。そして
「入院しないと保険が出ない検査項目があるから、明日入院する準備をして来なさい」
という。この機会に人間ドックもいいかと軽い気持ちで承諾したのに、そんなに大げさだとは思わなかった。しかし、ここまで来るともう言いなりになるほかない。
検査の詳細は省略するが、困ったのは最初の日から、毎日輸液(点滴)をするものだから、動き回るのが不便でしょうがない。わたしは検査のために入院しているのですよと看護師に言っても、医者の指示ですからという。結局輸液で黄疸が軽くなったのだから洗浄効果はあったのだが、医師も看護師も誰一人そう言う風に説明した人はなかった。一様に栄養のためですという。5%ブドウ糖500mlのカロリーはせいぜい100カロリーなのに。
検査は内臓のほとんどに及んだ。GPTが高い直接の原因は肝臓の炎症だが、それが肝炎によるものか、それとも他の胆嚢、膵臓、胃、腸、などによるものか、一々チェックするのだ。ただ、用いた手段は、X線、エコー、MRI、生化学検査、心電図など多岐に亘った。生化学検査では膵臓、肝臓、胃腸、前立腺などの癌のマーカーまで分かるようになった。これらが陰性だからといって絶対安全というわけでもないが、一応安心できるからあとは定期的に追跡することになる。
結果は、これら内臓に別段悪性と思われる腫瘍はないが、胆石が長い間胆管にいてなんらかの原因で胆管の一部を塞ぎ、胆汁の流れが悪くなったのだろうと言う診断が下された。この胆石、実はもう20年くらい仲よく暮らしているもので、時々医者に聞いてみても、「どこも痛まなければ放置したらいいですよ」といわれてきた。「その代わり、痛んだらそれこそ立っても座ってもいられないくらいになるから覚悟はしておきなさいよ」と釘をさされている。胆石の痛さについては、父58歳のときに発作が起きた状況をつぶさにみているからよくおぼえている。その他の内臓については、マーカーは安全範囲内にあるという。ただ、前立腺癌のマーカー、PSAはグレーゾーンの真ん中、追跡検査する程度でいいという。胆嚢結石については、本来なら切除するのが正しいが、年齢的に難しいので外科手術しないことにする、との宣託だった。60歳台なら手術を勧めるともいう。一つには、胆石の手術といっても、それだけとればいいというものではなく、膵管、脾臓管を傷つけないように避けるため、手術時間が往々8時間に及ぶからで、高齢者には非常に大きな負担になるからである。

さて、ドックの費用は?
総計8229元    三泊四日である。大部分は病室の差額自己負担分
(6300元)であった。検査費用合計は17636元、この分の90%は保険負担で、自己負担は10%であった。病室も個室だからこんなに高くついたが、本当は大部屋だったらこの分が不要になる。すると、せいぜい2000元程度で済むことになる。
実際、入院して検査を受けるのは退屈でもあり、何時検査の呼び出しがくるか分からないから、なんとも落ち着かない。本をよんでいればよさそうだが、そんな時に限って中断される。また、一度にまとめて全部検査できないですかときいたら、一つの検査の結果を見て次の検査を決めるのだという。いやはや、俎上の魚だからいわれた通りにするほかないが、「拘置所」に類似している気がして苦笑せざるをえなかった。
                          ‘08/05/27

2008年5月6日 星期二

台中の休日

台中の休日(Holiday in Taichung)
久しぶりに台中に泊まった。交通が便利になってから、日帰りでも疲れなくなったので、台中に泊まることがほとんどなくなったのである。妹たちの住所が郊外に移って車がないと出入りが不便になったせいもある。
用事が簡単に終わったので、この機会に懸案の眼の診断と、長いあいだおしゃべりしたことがない従弟を訪ねた。眼は、最近とみに視力が衰え、白内障の進み具合が気になるので、未だに現役で診ているJ君に検査してもらうためだが、瞳孔を拡大する必要があるため、普段は十分な時間がとれないから、延び延びになっていたのである。
J君の診療所は台中駅に近い緑川の畔に、もうかれこれ50年開業している。一度などは、台北からの帰りに車窓から飛び込んだ石炭のかけら(石炭を炊く蒸気機関車時代だった)が角膜に刺さってとても痛かったが、汽車を降りてすぐ彼の診療所にかけこみ、つまみとってもらって事なきをえた。手で擦らなくてよかったよ、と言ってくれたのが昨日のように思い出される。
診察の結果、白内障は60%程度、普通なら大抵手術しているところ、まあ、後しばらくは大丈夫だという。彼自身も毎年アメリカで検査してもらっているが、まだ手術していない。診察や処置には差し支えはないという。因みに彼の娘婿は有名な眼科医で網膜の手術のベテラン、アメリカ・ミシシッピ在住。また、眼底検査の結果も少し動脈硬化がある程度だが概ね良好。結論を言えば、年相応だがおおむね健康という嬉しいことになった。最近の大病院の医者は、人数と処方する薬、それに検査項目ばかりに関心があって、患者の言うことは聞かないのみならず、顔さえ見ない傾向がある。そんなこと知ってるよ、と言わんばかりの態度なのである。私がつけた病名は「優等生症候群」。だから親身に聞いてくれ、説明してくれる医者はよけいありがたい。
「僕は濾過器だよ。簡単な処置だけして、あとは大病院へ回す」と達観している。だから保険も見ない。
久しぶりで会った従弟は、中学で一年あとだが、本当は二、三ヵ月しかちがわないし、学寮や東京でも一緒だった時期が長かった。千葉にいた頃、夏休みに一ヵ月くらい泊まり込みで来て、二人で一升のピーナッツを平らげた記録もある。「読書の習慣と楽しみを教えてくれたのは兄さんだったよ。古典音楽も」と、僕が忘れてしまったことを話してくれた。僕がまだ台中にいた50年代にはよくダンスホールに誘ってくれた。酒飲みではなかった彼はダンスが唯一の楽しみだった。それが最近はカラオケ、それも演歌に凝っているという。歌詞に結構心を打つものがあるから、クラシックとはまた一味ちがったものがあり、ストレス解消の新しい方法を見つけたという。患者数は一日約30名、完全休診日や半日休診日をもうけてあるし、一回の診察は2時間程度にしてあるから、気楽にやっている。「家庭医学科」という看板を掲げているが、「要するに昔の開業医の続きだよ」という。「検査漬けの時代だが、どうしている」と聞くと、「なに、勘できめて、疑問があったら検査にまわすよ。収入は減るが患者にはその方が楽だね。不必要な検査が多すぎるよ。患者の目をじっと見て、言うことに耳を傾けたら半分くらい分かってしまうさ。第一、それだけで患者は半分治ってしまうのにね。{はい、検査、来週また結果を見にきてね}なんておかしいよ」と中々手厳しい。内科が多いので薬も出すから薬剤師も雇っているし、パソコンも使っている。パソコンを使う方がよほど忙しくて、本を読んだりカラオケへ行ったりする時間が削られるのがもったいないという。

ゴーストタウンになりかけている台中
台中は台中盆地の真ん中にできた街だった。戦前の人口6万人、道筋は整然とし、きれいな水を湛えた柳川の柳並木と、ブーゲンビリアー(日本名いかだかづら)が生い茂る緑川の2つの川に囲まれたこじんまりした街で、商店街もまとまっていた。その中心地がゴースト化しようとしている。いや、もう半分ゴースト化している。
従弟の診療所は中正路のはずれにあるが、彼が診療している間、大通りに沿って歩いて見た。台中港路の起点と中華路の間ほぼ真ん中になるその地点は、台中市の入り口で高速道路に通じるから、大型バスが盛んに出入りしているが、道路に面した店はと見ると、東側はシャッターを下ろしている店が約半分、西側はもっと多く、ほぼ60%に達する。店舗貸しますとか、売りますという張り紙をしている店も少なくない。昔日の面影はもうない。
市の中心は迅速に西の新開地区に移ってしまった。中心地の彰化銀行本店あたりはもっとひどいそうだ。表面上まだ繁栄しているが、実質は家賃の大幅下落に現れている。ある有名な靴チェーンの家賃はかつて月30万元だったのが今や5万元になった。それでも店は赤字の月が多いという。かつて台中銀座の称があった中山路(すずらん通り)を歩くと道が狭いだけに一層その凋落ぶりがひしひしと身に迫るそうだ。一福堂、太陽堂、美珍香、清水本店などの有名店がひしめいていたところだけに、哀れさを感じる。
台中はもともと人口に比して広いバックグランドを持っていた。消費人口は旧台中州をカバーしていた。市が西と南へ伸びていった原因は、店舗の大型化と住民の移動だった。外地の客は需要に追いつかない交通事情のせいもあって、車で台中に出てくるのが便利になった。必然的に駐車の問題が発生する。駐車場がない中心部は敬遠され、客足が落ちる。あとは悪循環である。かくして、旧市内はゴーストタウン化への道を歩むほかないようだ。店舗を1軒もっていれば左団扇で暮らせた時代は終わった。私たち「老台中」も友人、兄弟を訪ねるのに、アメリカ並みに車で連れて行ってもらうか、タクシーを利用するほかない。私は台北ではめったにタクシーに乗らないし、実際それで不都合もないのに、台中では一寸した用件でも大変コストが高くなった。結果、よほどのことか、誰か車で行く以外は、故郷離れが加速している。

2008年4月30日 星期三

バーゼル(Bazel)から

バーゼル(Basel)から

(はじめに)  最近バーゼルから興味ある便りが相次いでとどいた。台湾人にはいささか耳が痛いことなので日本語に訳してみた。

その1
ある年、スイス・バーゼルで開かれた商品展示会に参加した時の話。
中年とおぼしき母親に手を引かれた坊やが、わが社のブースの前で立ち止まったまま動かない。一秒毎に鶏が米粒をつつくデザインの目覚まし時計に見入ったのである。坊やが目を輝かせて、しきりに母親の腿をつねるのはどうやら買ってくれと催促しているらしい。展示会は明日で終わるし、わたしも身に覚えがあるから、その目覚ましを取り出して坊やに上げようとしたら、お母さんは、きっぱりと、しかし鄭重に断った。そしてわたしが気を悪くしないかと心配したのか、このようにいった。
 「いい時計です。ただスイス人は、必要でないものは買わないようにしつけられています。また、子供の不合理な欲望を満足させることはしません」
坊やが頭を垂れて立ち去る後ろ姿を見て、「このお母さん、ちょっとオーバーじゃないか」と思った。
次の日、主催者招待の打ち上げパーティに参加したとき、わたしは妙な現象を発見した。皆さんが持っているワイングラスの中身はみんなビールなのだ。そのわけをきいてびっくりした。
 「バーゼル人は商談するときはビールしか飲みません。ワインは高すぎるのです。家でもワインはあまりおきません。清教徒の信条にも反しますし・・・」
それから、彼はスイス人の卵の茹で方を教えてくれた。
「鍋に1cmくらいの水を入れ、水が沸騰したらヒーターを切って、あとは余熱で茹でるのです。電気代が半分ですみますよ」
世界一の国民所得を誇るのも無理がないと痛感した。
また、ある日、わが社の商品をたくさん買って引き取りに来たボスが、若い人を連れてきた。その子は不注意で梱包の鉄バンドで指を切ったが、ボスはただ一言「バンドをつけとけ」と言ったきり作業を続けさせた。「ひどいボスだなあ」と思ったが、作業が済んでからその子は彼の子供であることが分かった。「学校が臨時休校になったからね、見習いに連れてきたのだ。日当は払っているよ」、と屈託がない。その日、息子は舶来のジーンズを着けていたが、「これは親父がくれたものじゃないよ。去年僕が隣の家の雪下ろしを手伝って稼いだ金で買ったんだ」と自慢していた。苦労して稼いだ金だから、見栄で無駄遣いすることはない。
展示会の後ジュネーブへ。国連欧州本部の所在地で年に何千回も国際会議が催される都市だが、レマン湖の水が実にきれいなのに驚く。ある銀行家が言った。スイスのウォッチはただ一つの発明のおかげだ。スプリング。エネルギーを貯蔵できさらにそれをゆっくり放出できることがスイスの時計の基礎であり、スイスが常に発展の力を保てるのもそのためだ。
(ある実業界の人の述懐による)

その2
スイスでアルバイト。
バーゼルのデパートで宝石、ウォッチの展示会が催され、アルバイトを募集していたので応募してみた。期間は10日間、仕事はレジと包装である。宝石も時計(特に腕時計)はスイスを代表する産業なので、定期的にどこかで展示会が挙行されている。近年、中国や香港からの客を多くなったので、中国語を話すアルバイトが必要になった。
私はバーゼルに来てやっと半年足らず、ドイツ語は初歩しか出来ないのにつとまるかと心配したが、接するお客さんは地元の人も多いから、インタヴューの女性はドイツ語でゆっくり話してくれた。何とか聞いて分かる程度だから、結果如何と思っていたが、間もなく、採用するから、講習に来てくださいという通知を受け取った。内心、黒い髪の毛で黄色い肌のお客さんだけ相手にするかと思っていたが、実際にはカウンターに立って、雑多なお客を相手にしゃべらなければならないし、同僚ともドイツ語で話さなければならないことが分かった。今更やめたともいえないから、ここは面の皮を厚くしてやる以外方法がないようだ。
アルバイト第一日、デパートを入ったところにはスイス製腕時計、スイスナイフ、それに山と積み上げたチョコレートがあった。勤務場所はここである。スイスの住民は、こんな時特別割引が在るから、まとめ買いする習慣があるのか、開店と同時になだれ込んできたのは地元の人たちばかり。チョコレートなどはキロ単位で買っていく。それがスイス訛り丸出しのドイツ語で早口にしゃべる物だから、半分も聞いて分からない。幸い、一緒に立っている店員がてきぱき処理してくれるので、何とか対応できる。
因みに、どの本にも「スイス人の75%はドイツ語を話す」と書かれているが、実情はそこで暮らした人だけが分かる。バーゼルはもちろんドイツ語圏で、
ライン川の向こうはドイツ領だが、彼らのドイツ語は北京語と台湾国語よりも差が大きい。次第に、応対は彼女に巻かせて、私は専ら包装係りになってしまう。
ある日の午後、私の出番がやってきた。大きな声で喚きながら(あれは絶対話しながらとは言えない)、一群の黒髪、黄肌そして私が聞いて分かる言葉を話していた。かれらのお目当ては前列のケースに並んだスイス製ウォッチ、これを3つ、あれを2つと争って指差す。早くしないと他人に買い取られてしまうのを恐れるかのように。台湾人の海外旅行が、制限着きだが許可された当初、スイスの時計店で棚にある時計を全部下さいと言って店員に断られた話を思い出した。40年ばかりタイムスリップした。
かの有名なスイスナイフもお目当ての一つである。チョコレートにはまだなじみが薄いのか、あまり人気がない。レジ係りの同僚が計算して、金を受け取り、私が専ら包装を担当する。少し手間取ると「早くしろ!」と例の「私が聞いて分かる言葉」が飛んでくる。それもデパート全体が聞こえるくらい大声である。幸い、こんな客はそんなに頻繁ではなかったので無事勤まった。
ついに展示会最終日が来た。地元の人がまとめ買いにたくさん来る。どうして期間中にか来ないのですか、と同僚に聞くと、会期中はなるだけ他所の人に買ってもらうのを願っているのですよ。あのチョコレートを買っているおばあ
さんを見て・・・、あのおじいさんも・・・何キロも買っているでしょう。今日は最終日だから割引があることを知っているのですよ。との答え、実際スイス人は愛国心が強い。彼女は、「チョコレートにミルクを加えたのはスイス人ですよ」と自慢気に語っていた。
アルバイトでドイツ語がうまくなったでしょう、と聞かれると、答えはNoである。発音も文法もちがうバーゼル・ドイツ語ではキーワイドをききわけるのが精一杯。ある日、おばあさんがしきりに前のお客さんを指差して何かいっているが、「土語」なのでどうしても分からない。おばあさんどうやら怒り心頭に発しそうなので同僚にパス、何のことはない、あのお客さんと同じ袋に入れて下さいと言っていたのだ。
十日間のアルバイトが無事おわった。給料はまだもらっていないのに、従業員割引でワンサと買い物をしてしまった。ワインももちろん欠かせない。毎晩夫と寝酒が飲める、これがアルバイトの成果といえばそうかもしれない。
(孫の嫁のBlogから)

2008年4月24日 星期四

417  その汽車待った!
廖 継思

「おーーい、その汽車待った、わしは村長だぞ・・・」
と発車する汽車を停めた村長さんの笑い話がある。ところが、現実にスイスで汽車の出発を?秒停めた猛者がいたのだ。私の孫の嫁である。
今年の二月、長女は旧正月の長休暇を利用して、去年スイス・バーゼルの研究所に就職した息子(私の孫)の家を根拠地にして、スイス各地へ日帰りの旅を楽しんだ。新婚の嫁は、語学勉強中で案内役にはもってこいだった。スイス国内の汽車ネットはくまなく張りめぐられているので、バーゼルはいわば辺境に位置しているにもにもかかわらず、日帰りが可能だったのである。
その日、Zurichからバーゼルへ帰る列車は終列車だった。時刻表によればn番ホームから発車するとある。しかし、時間が近づいたのに、ホームにはほかの乗客が一人もいない。念のため時刻表を見直すとこのホームから出るのは土、日だけであとはmホームからということが分かった。見るとその汽車はまさにmホームに入ったところである。さあ、大変この列車をはずすともう汽車がない。小母さん連中は動きが鈍いから、若い嫁がまず駆けて行った。あと1分で発車である。駅の中といえども水があるところは凍っていて滑るから
普通のように駆けるわけにもいかない。小母さんたちはもっと慎重だ。
嫁はどうにか間に合ったが、まず車掌をつかまえて、事情を説明、「ちょっと待って・・・」と懇願した。車掌は時計と睨めっこしながら、笛を口へ持っていこうとする。しかし、嫁は知っていた。車掌が車内に入って戸を閉めない限り汽車は動かないことを。嫁はスイスへ来てまだ半年、語学学校に通っているがドイツ語はほとんど分からない。それもあって、ゆっくりとドイツ語にフランス語を交えて車掌に説明することで時間を稼いだ。車掌も若いレディの前でで、礼儀正しく聞いている。そうこうしているうちに小母さんたちが追いついた。汽車に飛び乗って、車掌に「Danke Schon」を連発して、汽車が動いた。待たせたのは1分もなかったらしいが、定刻より少しおくれたかも知れない。無事バーゼルに帰りついたのは、11時を過ぎていた。バスはまだ走っていた。
実は、私も1995年秋にスイスに旅行した時同じような経験をしている(汽車を停めたのではなかったが)。
インターラーケン東駅からハーダー山行きのケーブルで山頂まで行ったが、展望台からの眺めが期待はずれ、しかし、帰りのケーブルは6:30とあったからのんびりしていたら、展望台前の時刻表の6:30の前に小さな星が付いている。よく見ると、それぞれは7月と8月だけで、今(10月)は6:00が最終便なのだ。あわてて、半分駆け足で駅まで急ぐ。奥さん連には気の毒だったがこれを外すと、2時間くらいハイキングさせられるのだからしかたない。発車寸前やっとケーブルに間に合って東駅に降りることができた。
もう一度は、ChurからZurichへ行く時。今度のケース同様、指定ホームで待っていたが、時刻が迫っているのにホームには乗客が一人もいない。おかしいと思ってホームにある時刻表で確かめて見たら、10月からホームが変わっていた。
観光の国、スイスではシーズンとノンシーズンで列車の停まるホームや最終便の時刻が変わることが多いらしい。表を見る場合、小さな星記を見落とさないよう注意が必要だ。
でも、汽車を待たせる経験はそうざらにあるものでまない。貴重な体験である。 ‘08/04/17

2008年4月23日 星期三

2008年4月11日 星期五

台北きょろきょろ(2)

331 台北きょろきょろ(2)
台北のおのぼりさん
101ビル
この世界一高いビルが竣工してから2年も経つのに、台北に住むおのぼりさんはまだ行ったことがない。こんども先輩を案内してはじめて訪れた。
101ビルは高さ508m、敷地9158坪(30.277平方m)、台北のいたるところから見える。実際に高いと実感するのは郊外から眺めた時だった。年末に猫空から見た時、山並みの向こうににょきっとほとんど全容を見せていたので今更のように高いと認識した。
5階は食堂街である。5時すぎ、その一軒に入ったが、客が一人もいない。大丈夫かなあと心配になったが、7時に 店を出る頃には席が半分くらい埋まっていた。別の飲茶の店はいっぱいで喧騒をきわめていた。建物も高いが、値段も高いのにここでたべる人が多いのに驚く。
89階の展望台まで行く。世界一早いと称するエレベータ(1010m/分)で39秒で着いた。少し曇り気味の天気だが夜景は十分楽しめた。すくなくとも東京のサンシャインビルの展望台からの眺めよりもいい。サンシャインには二度ばかりあがったが、スモッグで方角さえ禄に判別できなかった。以後敬遠している。
音声ガイドが借りられるが、じっくり眺めるためには一ヶ所毎に切らないと追いついていけない。先輩の奥さんは次の説明スポットまでかけ足でいって、ガイドに追い回されていた。
独自の耐震装置がおもしろかった。あらためて、この高さでは台風のかぜ当たりは大変だろうと悟る。耐震はもちろん、耐風圧も必要で秒速60mの風に耐えるという。そのため、風圧ダンパーがあり、380本の柱は地下80mまで達し、岩盤の下30mまで達しているのもあるという。
まあ、台北に住んでいるからには一度は行って見るスポットだろう。今ドバイでこれを凌駕するビルを建設中だそうだから、世界一高いうちにいってみるべきだろう。

竹子湖
陽明山は数えきれないくらいいっているのに、竹子湖にはまだ足を踏み入れていない。かつて蓬莱米の原種保存田があることで有名だったが、のちに各農事試験場で保存するようになり、次にキャベツなどの高地蔬菜の栽培に転向した。今はカーラーの栽培と体験用の観光地として繁盛している。もっとも竹子湖へいったのはカーラーが目的ではなく、農業地理を研究している先生を案内していった。平地ではやや汗ばむ天候が、山の上では霧のなかでかなり寒い。用心して厚着していったのが役に立った。
さくらがぽつんぽつんと咲いているし、カーラーも満開。山芋収穫後の道具が田んぼに放置されている。
以前、山芋の栽培で最大の難点は、成長に時間がかかることと、収穫のときであった。深く地中に入った芋は往々長さ60cmにも達する。それを傷つけないように掘り起こすのは至難の技だった。これを一気に解決したのが、ヴィニール管をあてがって「横に」成長させた方法だった。横方向なので成長が早く、収穫時にはヴィニール管を掘り出すだけですむから、労力が格段に節約できた。近年陽明山地方が山芋の産地になった原因がここにあった。農業技術も革新が行われているのである。因みにカーラーの花は自分で採取して、一本10元。

高雄MRT(捷運)はおまけ
先輩と高速鉄道で高雄まで日帰り、ついでにもっか無料で市民が試乗しているMRTに便乗した。車両が少し変わっている。座席は一律に縦並び、柱は三本の湾曲棒を付属しているので、混んでいる場合はつかまりやすい。一本だけだと他人の手を避けなければならないことが間々あるからいいアイディアである。ヨーロッパのどこかでこのような車両に乗ったような気もする。また座席前のつり革の棒もまっすぐではなく、湾曲しているから座っている人が圧迫感を感じないようだ。ネームプレートをみたらSiemensだった。
先に開通するのは高速鉄道左営を真ん中に、北は橋頭、南は小港(途中高雄駅を通る)まで、市街地を出ると高架になるから建設費がかなり節約できただろう。もう一線は旧高雄港から市街地を通る地下鉄になるようだ。工事の途中で砂地に会ってずいぶん工期が遅れた。
2008/03/31

大山鳴動して

大山鳴動してねずみ一匹という言葉がある。大さわぎした割りに結果が小さい場合によくつかわれるのだが、最近似た経験をした。
3月の定期検査で、GPTが270で異常に高いといわれた。エコー(超音波)検査を受けるようにと指示される。時間は三日後の午後2時30分である。時刻はいいとして、検査前8時間はものをたべてはいけないという。夜食の習慣がないから、前夜から通算すると18時間空腹を抱えなければならないことになる。水は飲んでもいいそうだが、そのことは看護師からは告げられなかった。
約20年前の検診で胆嚢に結石があることが分かっているが、悪さをするのでなければ放っといていいといわれているから、問題があるとすれば胆石だろうと自分でも知っているから、その宗を告げる。この医師は、検査中もケータイを聞いているくらいで、あまり身を入れて検査しているとは思えなかったが、少し腫れていますねというだけで、あとは主治医に聞いて下さいという。
次の週、主治医に診てもらう。少し腫れているが胆管が詰まるほどではないから大丈夫だが、GPT270は高すぎますね、念のため胃腸科へ回しましょうと、すぐ転診の手続きをとってくれた。胃腸科ではほかの項目は正常だが、胆、膵臓、肝臓などのマーカーも検査して見ましょうと、更に10項目の検査を指示された。来週また来院することになる。
過去の検診記録を調べてみると、GPT、GOTともに30をオーバーしたことがない。270というのは10倍値である。調べてみると、中等度の肝臓機能障害で、急性肝炎かヴィルス性肝炎のおそれがある。「肝心」という単語があるくらい肝臓は大事な臓器だから、故障するとうるさいなあと気になりだした。GPTはまさに最初のシグナルなのだ。
折りしも一年間続けたジムがようやく効を発揮したのか、腹囲はあまり減少していないが、体重が二、三キロ下がってきた。知人二人からも少しやせましたねといわれた。一方では尿の色が赤みを帯びている。急激な体重減少はガンに対する警報でもある。やせたのは運動のせいか、病気のせいか分からないだけに、それも気になる。あれやこれや悩んでもしょうがないが、やはり検査の結果を早く知るに越したことはない。
さて、診察の日である。モニターに写し出されたデーターを見て、「あれれっ」と思った。GPT28、GOT25になっているではないか。過去の成績と同じレベルなのである。ほかの機能検査やマーカーも問題はないという。
「今後はどう注意すればいいですか」
と聞くと、時々追跡検査すればいいですよという。別に薬もいらないでしょう。安心が最良の薬ですから・・・と悟ったようなことをいう。
しかし、患者としては、やや不満である。それでは、あのGOT270は何だったのか、一向に説明がないからだ。以下は私の推理である。
詳しいことは省略するが、GPTもGOTも肝臓の細胞が破壊されて遊離した酵素の指標である。100以下であれば正常とされている。だから270はかなり異常だった。それが2週間後28に下がるとは考えられないから、270は小数点の桁違いではなかったかと思われる。27を270と見たのか、写しちがえたかだろう。以前のデーターが25乃至30だったことから、実際には27であった公算が高い。事後ではもはや証明できないだろうが。
ただ、患者としてはエコーから始まって、5回も病院に通うことになった。時間的には1時間もあればよいが、交通や待時間を入れると、結果としてほぼ半日つぶれる。老人は暇をもてあましているように見えても、結構仕事があるから、スケジュールの調整もしなければならない。
まあ、大山鳴動してねずみ一匹でよかったし、病院の裏側を垣間見た経験でもあった。
                          08/04/06 記す

2008年4月1日 星期二

糞尿課一北京篇

糞尿課一北京篇

国の威信を賭けて2008年のオリンピックをかち取った北京は、その準備に向け
て大童である。
その一つが、400年もの歴史ある「胡同」(フートン)の取り壊し。古いものは
すべて醜い、悪いという泥沼にはまりこんでいる。われわれが知っているだけ
でも、明治政府の城の取り壊し、国民党政府の城壁の取り壊し、紅衛兵の寺院
取り壊しなど枚挙に遑がない。日本の城でその災厄を免れたのは10指もなかっ
たらしいが、全国的な空襲で更に焼き払われ、現存する城はわずかに4つだけ
になった。各地で再建、復元しているが、コンクリート建てでは魅力がない。中
国でも主な都市の城壁は大部分取りのぞかれ、丁寧なところでやっと一部を残
す程度、世界遺産に指定しようにももう対象物がない。ヨーロッパで一つの市
全体が遺産に指定されているのに比べると誠に嘆かわしい。
前置きが長くなった。
オリンピックを迎える一環として、共産党が力をいれているのが便所である。
この悪名高きイメージを一掃すべく、北京市は、今度新たに500コも公衆便所
を建設する。実は、過去20年間にも200コばかりつくったそうだが、人ロー
千万を越す大都市にとってアンバランスなことはちょっと計算すれば分る。な
いよりはいいかもしれないが、今度新たに500コつくっても焼け石に水だろう。
さて、北京の公衆便所は、いままで有料だった。3角、つまり0,3元である。3
回行くと約1元になる。1元と笑うなかれ、NT$4元に相当するから朝飯代く
らい出てくる。そこでそれを倹約するため、路上に垂れ流す人間が後を絶たな
い。北京の人間はそれをみな地方からきた流民のせいにする。
有料には有料の利点があった。管理人がいて(といっても地域のボスだろうが)
料金を徴収するかわり、掃除などもやって清潔を保っていた。それが、これか
ら無料にする。入民のために。ところが無料になってあらたな悩みが出てきた。
いままで管理をやっていた連中が怠けだした。金が入らなくなったのだ。部品
はなくなる、掃除はいい加減になるし、水に溶けないかたい紙を使ってパイプ
を詰まらせるなどが普遍化したのだ。
一方、500ヶ所くらいではさすがに足らないと知ったのか、新たに開業するレス
トランやホテルに一般大衆にも開放するように義務づけた。そうしないと営業
許可を出さないという。いかにも「官」が一番偉いという見本らしい。
さて、人口千万、面積は台湾の半分もある北京市でその対策が功を奏するか、
貝を大きくして見ることにしよう。
廖継思09/04

2008年3月22日 星期六

台北きょろきょろー(1)

1211                   
     

師走になって小春日和が続いたので、浮かれて台北近郊をうろつく機会が何度かあった。

三峡
先ずは三峡。年に一度の桃園区農事試験場の研究成果一般公開日、ポインセチアの新種発表を手はじめに、さつま芋、果物の非破壊糖度測定、各種加工食品など、結構一日遊べる。今までは車で連れて行かれたが、今年は自分で行くことに挑戦、案外スムースに行けた。
家のすぐそばにあるメトロ駅から永寧まで40分、駅前で三峡行きのバスを探していたら、916バスが二台も来た。後ろの車に乗ったら乗客は私一人、まもなく高速道路へ上がって、あっという間に三峡に着いた。運転手に試験場へ行くにはどこで降りたらいいかと聞いたら、一番近いところで下ろしてくれて、ここから歩いて10分もかからないよという。バスで10分、歩いて10分、家を出てから一時間で着いたことになる。車を運転してもこんなにスムースにはいかない。私一人だけで申し訳ないですね、と運転手に言ったら、なあに、朝と夕方乗ってごらんなさい、毎便満席ですよ。それに高速道路を走るので立席はだめだから快適ですよ、との答えだった。このバスは三峡とメトロ永寧駅のシャトルバスの役目を担っているようだ。帰りは各バス停を回っている間に満席になった。ほとんどが台北大學の学生だった。台北市の悠遊カードが使用でき、料金は2倍だが十分引き合う。
以前、土城工業区の工場に勤めていた頃、よく退勤後三峡まで食事に来たり、祖師廟へお参りに来ていたが、車で20分はかかったのに比べると格段に便利になったようだ。会社は渋滞を避けて、30分はやく退勤になるので、夏などは十分に明るい。時に足を伸ばして行天宮の支宮がある白鶏や、原住民集落が残っている三民、復興(角板山)、大渓まで行けた。車そのものが少なかったこともある。メトロは将来三峡まで延長する計画らしいが、私は乗れそうにもない。
しかし、三峡は完全に様変わりした。昔の面影を残しているのは、あの三峡のランドマークだったアーチ橋と祖師廟ぐらいだろう。かのレンガ造りの「旧街」は長いあいだ放置した末に復元はしたが、本来の姿には遠い形になった。それでも残しただけよかった。
もっとも大きな変化は、広大な台北大学と林立する高層マンション群である。
台北市にあった中興大學の分校を基幹として設立した台北大學のキャンパスは100ヘクタールもある。バス停だけでも5ヶ所あった。学内を一廻りするだけでも大変らしい。

マンションはいずれも15階くらい、もともと田んぼだったところに建てられているから整然と並んでいる。高さもそろっているから、景観もそう見苦しくない。10年前には200万元程度だったが、今は2倍以上するらしい。総数2万戸だそうで、人口は約10万、それだけでも一つの都市が出来る。もちろん、道路も広く取ってある。メトロが開通すれば、台北のベッドタウンとして、さらに発展するだろう。現に、引越ししている現場に何ヶ所か出会った。
祖師廟や旧街へもこのバスを利用すれば、たやすく行けるようになった。正月に行った時、今の三峡名物はクロワッサンだと教えられた。近年有名になったものらしい。見たところ形だけで、チーズは入っていないらしいので試しても見なかったが、買い手はほとんどが若者だった。
美術と民俗に興味ある人は、李梅樹記念館を訪れるのもいい。李梅樹は師範大學の美術教授で、祖師廟の再建に生涯を捧げたといってもいい人である。何気なく見ている廟の内外の彫刻はすべて彼の指導で行われた。廟の後ろでは近年まで常時多くの石工や木工が修理や更新に従事していた。いわば廟お抱えの職人たちだったが、中国の安い工賃に侵食されて姿を消した。その高い廟宇美術の技術はどこへいったのだろう。

猫空
この妙な名前の地名は、ロープウェーの試運転で事故が続出したことで有名になった。十分なテストも経ないでいきなり本運転を行うのは香港の新空港をはじめ、華人の間では枚挙に遑がない。話によると、竣工予定より早く開始できると賞金がでるそうだが、いかにも華人の本質を衝いている。それに、ケーブルやロープウェーはすでに沢山経験しているから、行くとしても落ち着いてからだ、と思っていたが、案内させられた形で訪ねることになった。
出発はMRT動物園駅から。駅から350離れたところにロープウェーの駅がある。週日で人出は少ないかと思ったらそれでも100人近く並んでいた。地方の団体が多い。しかもほとんど高齢者である(シニアは半額)。
乗り場へ上がる階段のたもとで、入場する人数をコントロールしており、一定数になると一旦流れを止める。切符売り場は階段を上がったところにあるから、混雑しないでいい。もっとも、悠遊カードが使えるから、大抵の人は切符を買わなくていいようだ。
フランスのPOMA社のシステムで建造し、まだ新しいから外観も中身もいいが、窓が汚れて曇ったままで、そういうところに目が届いていない。終点まで4キロ、2回停車して、全行程を25分で300mの高さまで上がる。眼下は鬱蒼とした雑木林で、台湾の気候では年中緑のままだろう。神戸のハーブ公園行きロープウェーは、秋行くと眼下はみごとな黄葉、紅葉で時間が足らない思いをしたが、緑一色では単調過ぎるようだ。
猫空駅付近は道路が入り組んでいるが、道の両側は茶と軽食を提供するコテージ風の建物が目白押しに並んでいる。茶は150元、軽食やケーキはとりどりである。週日のせいか客はほとんどいなかった。休日は満員でにぎわうという。  駅の下の道路で小型バスが待っている。山道を回って行く先々で天恩宮、鉄観音包種茶研究開発センター、指南宮駅で降りたり散歩したりできる。われわれは指南宮で降りた。ここからまたロープウェーで動物園駅まで戻ることもできるが、聞いて見ると緩やかな坂を下っていくと指南宮(年配者には仙公廟のほうがなじみがある)へ続く。101ビルがここからよく見える。さすがに高い。
指南宮仙公廟へ来るのはほぼ20年ぶりである。最初に来たのは、1960年代だったか、2000段の階段を上ってきた。それが唯一のルートであり、信心を確かめる手段でもあったかも知れない。後に主廟・指南宮の下までバスが来るようになって、階段を上がる苦行は免れた。その時代が最盛期だったかも知れない。今、廟の内部や神像は大きく、金ピカになったが、参詣者数は昔日の面影がないようだ。
もともと、仙公廟は水商売、特に風俗商売の神様として信仰を集めていたが、神様に頼らなくてもよいようになったのだろうか。廟からバス停広場へ通じる道の両側は、かつて売店が並んで喧騒を極めていたが、今は10%も開いていない。仙公廟の衰亡を象徴している。
売店通りに続く広場から530号バスが出る。公館まで15元、政治大學などを経て、メトロ万芳社区駅にも停まる。終点は台湾大學・公館駅前である。

台北市立美術館
「海洋堂とオタク文化」特展の立て看板に惹かれて途中下車して参観した。高齢者にはもうオタク文化とは縁がないとばかり思っていたが、文化の一角を占めるに至っただけあって、結構興味深々たるものがあった。
1960年代から日本電気製品のメッカだった秋葉原に異変が起きたのは、20世紀も終わろうとしていた1998年に、海洋堂が動画、ゲーム、模型などを売る店を開いてからだった。それがオタク文化の名称で二次文化を形成するまでに発展した。会場に入ってまず目に付くのは、怪獣、恐竜、漫画のキャラクター
の模
おたく少女型と、この上なく魅力的な美少女の等身大の人形である。顔は少女だが胸は巨大、脚がとてつもなく長い(と感じる)美少女、しかし、やせていまどきのガリガリのモデル(Size0の別称あり)みたい。目測で十頭身ぐらいあるかと思ったが、パンフレットの写真をコンパスで測って見るとちょうど八頭身であった。それでは普通の人形はどうか、とかわいい人形の場合、四頭身ぐらいだった。じつは、視覚的に四頭身の方が断然かわいくて、八頭身では嘘っぽい感じを与える。怪獣の方はそれこそ千変万化、子供は大喜びだろうが、漫画を見ない老人族には何がなんだか分からない。総じて、模型がこんなに多種類簡単にできるようになったのは、どうやら細工しやすいシリコン樹脂の出現のおかげらしい。
衡陽路(栄町)を歩くと・・・
城内の栄町といえば、太平町(延平北路)と並んで台北を代表する高級商店街だったが、今衰退の兆しが見えてくる。久しぶりに歩いてみたが、シャッターを下ろしている店が目立つようになった。改修のためかと思ったら、休業か貸し店舗のテナント探しのためらしい。いわゆる東区に繁栄を奪われたせいでもある。大型店ができないのも痛手だろう。第一客が集まらない。続く重慶南路の書店もシャッターや空家が目立つ。若者の知識の来源がインターネットに移って、本を読まなくなったためにちがいない。小売の不振、家賃の値上げなどが原因だという。
台湾の輸出はほとんどIT産業が支えているし、もうけてもいるが庶民は益々追い詰められているようにも感じられる。

龍山寺
暖かい日の午後、龍山寺へ行くと老人世界に紛れ込んだ感覚になる。境内にたむろすることが禁じられて久しいので、廟の向かいの公園が満員である。ベンチがいっぱいなのは当たり前で、ところどころ人の塊があるのは将棋と観戦者である。何処も同じ風景で、当事者よりも観戦者の方が熱心で意見が多い。あまりうるさいので切れる老人も時々あるという。喧嘩には至らないが、口論になるのは珍しくないそうだ。
広州街から康定路にかけての停仔脚の物売りは益々盛んになった。天気がよくて暖かいせいもあるだろうが。並べている品物も種々雑多である。時計、装飾品、ケイタイのような高価(?)なものから、誰に売るか知らないが、布の上に皮靴を1足だけ並べたのまである。三水街まで続く。冷やかすにしても、一人では気後れすることもあるから、二人くらいでいったほうがおもしろい。

林口ニュータウン
友人が林口のマンションに移り住んだので、天気のいい日を選んで尋ねて見た。高速道路が開通した頃、一面雑木林だった林口台地が、台北のベッドタウンとして生まれ変わった。旧市街の周辺に12階建てのマンション群が建ち並んでいる。中には8棟とか12棟で一つのブロックを形成して、さながら都市の中の小都市になっている。最初からそういう風に規制したのか、12階でそろえてあるから景観的にもよい。友人のマンションは8棟で中庭を囲んで、総数500戸、住民は2000乃至3000人と推定される。台北からのバスがマンションの前に停まるし、林口市内の巡回無料バスが運行しているから、結構便利だという。台地で海岸に近いので風がやや強い嫌いはあるが、夏はかえって涼しいかも知れない。
マンションのすぐ傍にしゃぶしゃぶの店があった。肉か海産を注文するだけで、その他の野菜類は食べ放題である。ご飯、おかゆ、春雨、コーヒー、ジュース、ケーキ、アイスクリーム、ジェリー、果物も制限がない。お値段の方は250~300元、台北からの交通費は50元(シニアーは25元)x2だから、バス代を払っても台北より安い。バスに乗る時間は行天宮から約40分で、市内とそう変わらない。時間があってお腹に自信ある方は試してはいかが?

最後にデザート。先月花蓮へ行った時、自強号のトイレで見た標示を紹介します。
「Baby changing table」
何のことだかお分かりですか?

                           2007/12/15