2009年10月17日 星期六

2009年9月16日 星期三

拉 致
廖 継思

拉致――辞書を引くと「無理やりつれていくこと」とある。略奪も似たようなものだが、この場合土地、物品、食料をも含むので範囲が少し違うらしい。拉致は人間の場合にだけに使われるようだ。大げさにいえば、拉致は人類とともに始まった。そして腕力の差からいって男が女を拉致するのが普通だった、と思う。

ローマが現在のローマの地に建国したのは紀元前715年とされているが、彼らが居を定めた場所は、起伏する七つの丘にかこまれた、ほとんど耕作できる平地もないところであった。北に前から定着していたエトルリア人(サビーニ族)が、南に地中海を走り回っているギリシャ人の集団がいたので、その場所に落ち着いたらしい。集団は牧畜(羊飼い)を主にして川辺にいたから水利の便はあったが人口の急速な増加につれて領地を広げる必要があった。初代の王ロムロス(ローマの語源は彼による)は度々部下をつれて隣のエトルリア人地区に攻め込む。目的は女性の拉致だった。ローマ人は男が多かったのか、拉致した女性は妻にした。当然、拉致されたほうは奪い返そうとする。何度も戦闘があった後、ついに拉致された女たちが戦場へ割り込んで、戦いはやめなさいという。夫(ローマ人)と親、兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないからだという。そこでローマとエトルリアは和解し、ローマの版図がはじめてひろがった。
拉致が結婚の一つの形式だったのはローマばかりではない。多くの民族にのこる結婚風習からそのことがうかがえる。台灣でもその残滓と思われる結婚風習が数多く残っている。花嫁を迎えに行く「子婿伴」や里帰りの「舅仔伴」などがそれだが詳しいことは別の機会に譲る。

ローマの建国からほぼ2800年たった。
人類は文明になったというが、北朝鮮では最近まで公然と拉致が行われていた。ある日、新潟県の海岸で散歩していた若者が(男女を問わず)正体不明の船に乗せられていったり、ヨーロッパで日本人の若い女性が突如姿を消したり(横田めぐみは当時13歳だった)、行き先はすべて北朝鮮だった。総数は13人とも17人ともいい、正確な数字はわからない(日本と北朝鮮の発表した数字がくいちがっているため)。結婚させられたのもいるがこのような拉致の真の目的はいまだに謎につつまれている。
庶民ばかりでなく、大物も拉致されることがある。金大中が野にいたころ、東京のホテルで韓国のKGBに拉致された事件があった。他国の首都で特務機関が行ったことで大事件といえるが、韓国政府が謝罪したかどうか分からない。
拉致の先輩は、実は中国である。政敵の拉致は日常茶飯事のようにおこなわれていたが、戦乱の時代には若い男を拉致して兵隊にすることも普遍的に行われていた。日本陸軍は兵員が足りなくなるか、あらたに師団を編成する必要が生じると1銭5厘の「赤紙」(召集令状)を発行すれば国家機能が働いて兵が集まるが、中国では隊長が請負で集める。このとき定員いっぱい集める隊長はいない。もう長く軍隊で生活してあらゆる細部に通じた老兵や志願兵で員数が足らないと街へ出て拉致する。それで八割かた集まったところで募兵完成の報告をする。点呼があるから定員に足らないぶんは点呼の日だけの「傭兵」に日当を払って雇う。
私が子供だった頃、となりの集落に「老啓叔公」という話好きな大叔父さんがいた。酒が好きで一杯機嫌になるとよく昔話をしてくれた。あるとき、なにかの拍子で「わしはな、シナ兵になったことがあるんだよ。清朝の兵隊だがな」といったことがある。よく聞いてみると、県庁が彰化にあった頃、守備兵の身代わりで点呼査察に参加したのだという。
「お前の名前は林xxだ。(よく覚えておけ)。名前を呼ばれたら「有(ユー)」と手をあげて答えるんだぞ。わかったか」
と何度も練習して、制服を着て広場に整列し将校がくるのを待った。係官は名簿片手に一々名前を読み上げ、手があがるとちょっと観察して次に移る。馬鹿面でもかまわないが、あまり年をとっているものはだめだ。
「200人くらいいたから結構時間がかかったよ。全部が傭兵ではなかったが。夜になってからわれわれ臨時兵は日当をもらって帰った。そうだなあ、銀貨一つくれたかなあ。割りのいい仕事だったよ。あとの二割の人の給料はどうするかって?もちろん隊長のポケットに入るさ。ほかの給与も含めてな。ただね、一人占めはいかんよ。県長はもちろん、台南府にも適当な人を配して査察の時期を知らせてもらえるようにしないとばれるからね。結構出費もあったんだろうよ。そんな金を節約したために通知がおくれて傭兵の手当てが間に合わず、汚職罪で銃殺されたのがいたそうだよ。
拉致か。平時はそんなことしないよ。あれは軍が移動するときにするもんだ。拉致してそのまま行軍してしまうからね。拉致されたとわかったところで相手は武器を持った集団だ。手が出ないよ。泣き寝入りするだけだ」

国民党時代にも拉致は半ば公然とおこなわれていた。公然の秘密ではあっても、国軍の栄誉に係わるのでいう人もなかったが、なぜか中華人民共和国建国六〇周年になる今年、相次いでいくつかの拉致の例がテレビや新聞で暴露された。
六月に放映された「台灣演義」で二例報道されている。一例は大連で結婚式に赴くため家を出た若者が、街で兵隊狩りに会い、そのまま軍に編入された件である。彼が属した部隊は東北地方で連戦連敗の末台灣に撤退してきた。後に国軍更新計画で退役し、結婚して子供ももうけたが、ある日台北の街角で大連で結婚するはずだった彼女に会った。奇跡的に彼女も結婚して台灣に逃れてきていたのである。再会した二人はともに配偶者を亡くしていたので改めて結婚し、ニュースに大きくとりあげられた。この例はきわめて稀な幸運な例だが、ある新聞が伝えるところによると、母に「醤油を買ってきて」といわれて街へ出たところで拉致に会い、部隊とともに台灣に逃れ、一九八九年中国への帰省訪問が許されるまで母親との連絡も覚束なかった彼が、帰省するについて真っ先に買ったのは醤油一瓶だった。母の言いつけを果たすために。美談である前になんと悲しい国かと思う。
中国では兵隊の員数をあわせるために拉致が普遍的に時代を超えて行われていたことが分かる。こんな例がどれだけ埋もれているだろうか。掘り起こせば何万とあるだろう。
中国のエリートによる座談会の記録を読んだことがあった。毒ギョーザ事件について異口同音に、「日本人がどうしてそんなに騒ぐのか分からない。だれも死んでいないのに」と言っていたのに唖然とした。彼らにとって日本人がなぜ拉致問題をとりあげて騒ぐのか、永遠に分からないだろう。
史上最大規模の拉致は、ポルトガルによるアフリカ人の拉致だったのではないかと思う。カリブ海の島々のサトウキビやブラジルの広大な土地に栽培していた綿花の収穫は一斉に行う必要があり、大量の労働力が要求された。それをポルトガルは現地で拉致したアフリカ人に求め、かの悪名高き奴隷船に積んで供給したのである。拉致に当たったのはポルトガル人だけではなかったが、運送したのは殆どポルトガル船だった。その数900万人とも1500万人ともいう。酷い条件の奴隷船で運んだため、途中で死ぬものも多かったから記録が不確かだったのだろう。北朝鮮あたりでは「たかが十人や二〇人の拉致でなにを騒いでいるか」と考えているかもしれない。
一方、日本でも秀吉の朝鮮出兵の際、引き上げるときに朝鮮の陶工を拉致した前歴がある。その子孫がいま一四代か十五代になっているらしい。このときは朝鮮の優れた陶磁器技術がほしくて連れ帰ったのだから、納得づくでつれてきたのもいただろう。いずれにしてもすでに日本の社会にとけこんでいる。

人類の歴史の中では、戦争で敗者になると勝者が本国に拉致して奴隷にすることが広くおこなわれきた。近代になって捕虜の取り扱いに国際的なルールが決められたが、労働はさせていいことになった。しかし、ソ連は戦争が終わった時点で捕虜をシベリアに連行し、戦後もなお何年間も労働させた。「抑留」と造語したが、実質は拉致なのはまちがいない。これに対してソ連が謝罪したのをきいたことがない。

2009年8月30日 星期日

緑の海平線を観て――少年工物語補遺

緑の海平線を観て――少年工物語補遺
                            廖 継 思

2007年11月26日、公共テレビで「緑の海平線」(少年工物語)が放映された。郭亮吟監督によるドキュメンタリーである。郭監督は、家族がゼロ戦となんらかの関係があったので、是非記録として残したかった一念からこの映画の製作を思い立ったという。私の弟がその少年工の一員だったので、見てもらって感想を聞いた。
一般に海軍工員と呼ばれていた高座の少年工は総数8419人もいた。第一次は昭和18年4月に高座海軍工廠に着任したが、選考は前の年から行われていた。海軍の戦闘が海戦から空戦に移って行く中で、飛行機の増産が最優先となる情勢を見て取った結果である。しかし、内地では兵員の動員で労働要員が不足していたので、台湾の若い少年に目が向けられた。
募集は昭和17年、当時国民学校の高等科1,2年生だった男子生徒(15歳前後)を対象に、学校の先生を通じて行なわれた。昭和17年といえば、ミッドウエー海戦とガダルカナルへの米軍上陸で戦局は不利に傾いていたが、一般国民には知らされず、まだ勝っていると思われていた時期である。熱心な教師や学校では半ば強制的に勧めた形跡もある。
働きながら技術を習得するとともに、中学程度の学業も教えるから、何年かあとには中学卒業の資格が得られるというのが、募集の要項であり、当然愛国心に訴えることも忘れなかった。志願が原則だから保護者の判が必要だった。親が反対だったので、判を盗んで押した人もいたといわれている。
選考は学科試験から始まった。
学科試験をパスしたものだけが第2次試験に参加できる。主として口頭試問と身体検査だが、ここで落とされて泣いた人も少なくなかった。志願者約2万人から採用したのが上記の数字であった。
上記のほかに、旧制中学校や実業学校を卒業した人も募集した。少年工を統率するためで、中隊長と呼ばれていた。約200人採用された。20歳前後で、私の中学のクラスメートも一人採用されている。弟は第7期で、その中隊長は台北二中出身の人であった。広田と呼んでいたから多分黄姓だったのだろう。
少年工はまず高雄の岡山海軍工廠、俗称「空C廠」に集合の上、何回かに分かれて南方からの輸送船とともに日本に赴いた。ドキュメンタリーでは、高座工廠を「空C廠」といっているが、それは間違いで、「空C廠」は岡山海軍工廠のことであり、南方からの飛行機の整備を主な業務としていた。(はじめは一般から自動車整備の経験があるものを募集していたが、あとで少年工も一部投入された。空C廠は後にフィリッピンに進出して現地で整備をするようになったが、米軍の上陸後山の中に逃れ、何ヵ月かの後投降して一命を取りとめた村人がいた。少年工でフィリッピンで亡くなった人がいたのはこの事情による。)
第一梯団の少年工約800人は、昭和18年4月30日にサントス丸で高雄を出発して、5月7日に高座に着いている。昭和18年といえば、その3月19日に神戸とキールンを結ぶ内台航路の高千穂丸がキールン沖で撃沈されたばかりだったから、海軍でもこれら工員の輸送にはずいぶん気を使ったらしい。第一船は800人をのせて、数隻の南方からの軍用船と船団を組み、駆逐艦に囲まれて航海した。この方式は一年後弟が乗った第7期の時も同様だったという。第7期は昭和19年3月に出発したから、情勢は一層厳しくなっており、護衛駆逐艦の数も多く、乗船者も増えたのか、野菜などは甲板に露天積みして網かけしていただけだったという。
実は、私は弟が志願したことを知らなかった。高座からのはがきではじめて知ったが、さて高座というのはどこにあるか分からない。ようやく、大和の近くにあることが分かって、千葉から横浜まで行き、それから相模鉄道に乗り、大和で降りて高座に着いたのはもう昼を過ぎていた。実際は、大和で江ノ島線に乗り換えて鶴間で降りる方が近かったが、知らない土地で大廻りしたことになる。弟たちはまだ基礎訓練中で、合図の笛に合わせて金槌を振り上げては鏨(たがね)を叩く画面が映画で何度も放映されている。一棟200人の宿舎が40棟建設されて、彼らはそこで生活し、工場まで2キロの道を、隊列を組み、軍歌を歌いながら工場まで歩いて通勤した。私が高座へ行ったのはこの時だけで、その後一度だけ派遣先の中島飛行機製作所・太田工場まで行っている。私も工場に就職したばかりで、中々休みが取れなかったのである。宿舎はノミだらけで、その飛び上がる音が聞こえるくらい、文字通り跳梁していた。
高座工廠が正式に開廠したのは昭和19年4月だったから、第一、二期生(第一期せいは内地で募集した日本の少年だったから、台湾から行ったのは二期生が最初だった)あたりは、工員養成訓練のかたわら、約束通り学科の授業も受けたが、それ以後になると基本訓練のあとすぐ各地の工場へ出向している。弟は4月に着いて、6月か7月にはもう太田の中島製作所へ派遣されていた。私が尋ねて行った時、広田中隊長の計らいで、腕章をつけて工場のゼロ戦製作現場を見学している。はじめて身近に見るゼロ戦は意外に小さく、これでよくも台南からフィリッピンまで往復できたと思うくらいだった。機体と翼をリベットでつないでいく動作はもう一人前の工員に見えたが、実は一般工の助手として当て板などを支えていたに過ぎない。別棟で夜間戦闘機・銀河と月光、高速、高高度戦闘機・雷電の試作が進行中だった。まだB29は来襲していなかったが、ゼロ戦では高度や速度で歯が立たないことが分かっていたので、次期戦闘機として期待がかけられていたのである。これらの機種は、後に高座工廠に移って製作されたが、そのころには空襲が激しくなっており、資材も不足勝ちで、それでも終戦までに128機生産されたが、実戦に参加できたのはそんなに多くなかったらしい。期待ほどの戦果も上がらなかった。
私はまだ卒業しない前の六月には就職先の会社に入り、巣鴨の社員寮にいたが、過労で9月に入院したとき、弟は独りで寮まで尋ねてきて、看病のためと称して、1週間近く泊まっていった。寮長広田君の特別な計らいだった。退院の日、弟と二人で飯田橋の病院から銀座へ出ようとして、都電に乗っていたら、警視庁あたりで空襲警報が発令された。電車が停まり、乗客はみな下ろされたが、防空壕に入る人はなく、まもなく、澄み渡った秋空に銀色に光るB29がただ1機悠々と飛んできたのを見上げていた。青空をバックに光っていた姿は美しくさえ思われた。これが東京上空に現れた最初のB29で、半年後東京下町の大半を火の海にして焼き尽くす魔物の尖兵だったとは誰一人考え及ばなかった。B29はその後毎日昼ごろに定期便のように飛んできた。本格的な空襲が始まったのは11月24日、70機編隊で来た。最初の偵察から約2ヵ月しか経っていない。
少年工の仕事は、第1、2期はいざ知らず、あとで来たものは主として一般工の手伝いで、まだ独立して仕事できるほどではなかった。日給90銭で休みの日は給料が出ない。少し熟練してくると日給1円5銭に上がる。食事は切符制で、月のはじめに食券が渡される。それを失くすと食事もできなくなる。実際に食券を失くして食事ができなかった例が時々あったという。分けて上げたくても、自身が不足だったのだから、どうにもならなかった。給料は30円ぜんごだが、派遣になると加給が付く。しかし買いたい食品は手に入らず、ほかに用途もないから結構余っていた。のちには100円ももらっていた人がいる。
高座の少年工たちは、8月15日の終戦の放送を工場内で聴いた。雑音がひどくて内容がよく理解できなかったが(この期に及んでも小難しい漢語ばかり並べていた)、この朝は空襲がなかったし、どうやら戦争は終わったらしいことだけは分かった。しかし、xx海軍中尉は、皆を集めて、
「お前たちが一生懸命仕事をしなかったから戦局が悪くなったのだ。気合を入れてやる」
とまた勤務を命じ、夜業まで続けた。米軍の飛行機がもはや飛んでこないのが変だなあと感じながらも毎朝整列しては、工場へ向かった。そのうちに、各地へ派遣していた工員が、船橋から、太田から、名古屋から帰ってくる。
「何だ、お前たち、何をしているのだ。戦争は終わったんだぞ、負けたんだぞ」
とはじめて終戦を知る。軍人の頭の固さを知る一例である。
寮では出身地(庄単位)別に再編成が行われ、一時金が何百円(700-800円だった?)か支給されたほか、ガリ版刷りの身分証明が渡されて、電車、汽車はすべて無料で乗車できるようになった。そこではじめて横浜や東京へ行けた人たちも多い。焼け野原になったとは言え、大都市は田舎出身者が大部分だった隊員には魅力があった。勇敢な者は大阪まで兄に会いに行っていた。食事は継続して供給されていたが、食費を払うことはもうなかった。そんなにご馳走ではないが、少なくとも腹一杯食べられるようにはなった。困ったのは、倉庫の食塩が底をついて、塩気のない食事が何日も続いたことで、幹部が相談して近くの厚木飛行場までいって塩を積んで帰った。マッカーサーが厚木に到着する前だった。マッカーサーは8月30日に厚木に降り立った。
町の中は復員した兵隊服の男であふれて、いたるところでマーケットが開かれていたが、大根1本10円、するめ1枚10円と貨幣価値は円単位に跳ね上がっていたから、一時金をもらったといっても瞬く間に消えてしまうものだった。この時、もう要らなくなったゲートルなどを農家へ持っていくと喜んで食料品と交換してくれた。このような生活が4ヵ月半続いて、弟たちはその年の12月31日、横須賀から氷川丸で帰国した。帰る直前に脚をやけどしたので1等船室に入れられた。生涯はじめて、またおそらく今後も1等船室には縁がないだろう。またとない経験だった。
故郷に帰った弟は15歳になっていた。本来ならば新制中学を卒業する年であった。高座の約束が絵に描いた餅になったので、改めて中学を受験しなければならないが、公立の学校はすべて入試を終えており、来年まで待たなければならない。幸い、林献堂氏の長男(ケンブリッジ卒)が霧峰で私立中学を創設したのでそこへ入学できた。
しかし、このような幸運は誰にも訪れたものではなかった。農村出身の多くの人は年令と学資の関係で進学を諦めざるを得なかった。何よりも3年間の日本での生活で、日本語と母語の台湾語しか話せなくなって北京語に順応するのに苦労した。頭がよかったにもかかわらず、親の農業を継いで一生を終えた人も少なくない。それでも都会生れの人はまだましだった。少し歳がいってはいたが、順調に進学して大學を卒業し、国際舞台で活躍した人(山を愛し、3ヶ国語に堪能だった楊氏や短歌ですぐれた作品を数多く残した洪坤山さんなど)がいた。一方、国民党軍に志願させられて内戦で戦死したり、大陸で病死したりしたのもいて、それこそいろいろであった。いずれのケースでも日本政府は何ら処置をとっていない。原爆被害同様、彼らはもう日本国民ではないという理由である。一方、台湾の国民政府は、少年工を日本に協力した者として差別し、その技術を活用しようともしなかった。高座経験者で高座会が結成されたのは、戒厳令が解かれた1987年だった。しかし、ほとんどの人は60歳になろうとしていた。また、当時は皆日本名をもちいていたから、本来の姓名が分からず、連絡がつかなかった人もかなりいた。

映画「緑の海平線」はその間の事情をかなり伝えてはいるが、取材不足の部分もある。後世の人がそのまますべてを網羅した真実と誤解しないように、敢えて本稿をしたためた。もちろん、ここに書かれたこと以外にもなお8000人あまりの人が語りたくて果たせなかった部分も残されていることを十分理解しての上である。
映画を見ていて感じたことがあった。披露された手紙の字がきれいであったばかりでなく、文章がかなりの水準に達していたことである。いまどきの日本の中学生でもこれだけの文章が書けるのは何人もいないだろうと思った。弟に言わせると、少年工に志願したのは級長とか副級長クラスの人が多く、一つの国民学校から6,7名程度しか合格しなかったのだから、当然だとのことだった。
一つ不思議というか僥倖というか、あれだけ大きな建築物がなぜ爆撃に会わなかったかと言うことである。銃撃には度々遭遇したが(銃撃で六名死亡したし、爆撃では名古屋の三菱工場で直撃弾に当たって25名死亡した)が高座工廠は爆撃を受けなかった。急ごしらえの木造建築だから、爆撃でも焼夷弾でも一たまりもなかったにちがいない。工場、宿舎を通じて無事だったのは、全く奇跡というべきだろう。それに、あの危険な時期に何回かに分かれて日本へ輸送されたが、一隻も撃沈されなかったのも奇跡に属する。あるいは台湾の媽祖さんがはるばる海を渡って庇護したのかもしれない。
                         2007/12/25

参考文献;  保坂 治男; 台湾少年工 望郷のハンマー  1993/12月
       野口 毅 ; 台湾少年工と第二の故郷    1999/7月
       台湾高座会編集委員会;
              難忘高座情          1999/10月
       

「よし」「だめ」とTake care ten minutes

「よし」、「だめ」、「引け」・・・
何の掛け声かおわかりですか。実は、これは野球用語で、皆さんおなじみの「ストライク」「ボール」「アウト」のことで、戦争中血迷った軍部が「英語は敵性語だから使ってはならぬ」と決め付けて、創作した用語でした。昭和18年3月のことでした。因みにこの「敵性語」は「敵国語」でなかったところが実に傑作でした。他にもラグビーは闘球、バスケットボールは籠球、バレーボールは排球、ピンポンは卓球、たばこの「バット」は「金鵄(きんし)」になりました。そのまま定着したのも少なくありません。戦局が楽観を許さなくなった時期に、本職の軍務をほったらかしてこんなことに頭をいためていた大本営の参謀たちの姿は、今からみると滑稽そのものですが、この敵性語禁止令で一生涯損をした人たちがいたことはあまり知られていません。
軍部は教育の場までこの政策を押し広め、女学校、実業学校生徒は敵性語を学ぶ必要がないという理由で授業を取りやめ、わずかに中学だけが「将来外国の知識を吸収するのに必要だから」という理由で時間数を減らして保留しました。私事で恐縮ですが、家内はこの時期に女学校に入学したので、アルファベットさえろくに読めない状態でした。最近、もっと深刻な状況が発生しています。一大決心でパソコンを習おうとした、年配のおじさん、おばさんたち、キーボード上のA、B、C・・・の位置が分からない(もう覚えられない)ばかりか、日本語のローマ字つづりができないのです。先生がまず困ってしまいました。いまさら仮名のキーの位置は覚えられないから、諦めて放棄する人ばかり、折角大枚を出して買ったパソコンが机の下で眠っています。この人たちは日本のかつての軍部に一生涯祟られているのです。
この文を書いた動機は、二つのことを思い出したためでした。一つは、戦後まもなく、太平洋の島々に散らばっている日本軍を復員させるために軍艦「酒匂(さかわ)」がある島に着いたとき、そこにいた米軍の将校が「酒の匂いがしませんね」といったこと。随行の記者が「どうしてそんな洒落(しゃれ)が言えるのか」と聞いたところ、「私たちは、志願して入隊するとすぐ日本語速成教程に回されて日本語を勉強しました」との返事、日本の軍部が英語を敵性語と排斥して教えるどころか、禁止したのにくらべて、米軍の柔軟なやりかたに若い私は強いショックを受けました。終戦後まもなくのことでした。もう一つは、戦後十年も経ったころだろうか、当時台灣に来ていた米軍顧問団の将校が通訳官をしていた知人に日本から来たガールフレンドの手紙をみせて、「どうして彼女はわたしに・・Take care ten minutes.というのですか」と聞いた話。彼女は日本語で「十分気をつけて・・・」と書いたのを彼は十分=ten minutesと読んだためでした。二人とも軍に入隊してから日本語の速成教育をうけたにもかかわらず、漢字の意味までマスターしていたのです。日本が負けたのは、このような日本軍の「夜郎自大」と米軍の「柔軟性」の差も影響しているとこのごろ思います。
もっとも、これで得した人たちもいました。台湾で(のちに中国で)野球をするとき、日本がかつて造語した野球用語の漢字が大変役に立って、頭をいためる必要がなかったのです。今台湾でもシナでもストライクは「好球」、ボールは「壊球」、ホームランは「全塁打」ですから、日本の訳をそのまま流用したにちがいありません。
ここでちょっとエピソードを入れると、太平洋戦争中、日本兵は40年前の明治38年(1905)制式のいわゆる三八銃で戦いつづけました。重さ4キロ、弾丸は5発、一発撃つ度に(こうかん)と称するレバーを引いて薬莢を飛び出させ、(こうかん)を押し戻して新たな弾丸を装填する方式です。装填できる弾丸は一度に5発。対する米軍のものは重さ2.5キロ、弾丸は25発、引き金を引く度に薬莢が飛び出し、次の弾丸が装填されました。こんな悪条件で戦わされた日本兵に同情を禁じえません。
日本語速成学校で勉強したアメリカの若い将校たちは、大部分前線に派遣され、捕虜になった日本兵士から出来る限りの情報を集めました。それはすべてワシントンの本部に送られて真実性を審査、分析して多くの作戦や戦場での戦闘法に生かされたことが最近公開された資料で明らかになっています。

焦点を台湾に移してみましょう。戦後台湾へ進駐してきた中国兵と官吏のあまりな質の悪さ、横暴さに失望、反発して彼らが推進しようとしていた「国語」を、習わない、話さない人がかなりいます。それがここへきて少し困ってきたように感じられます。中国語の電脳が使えないのです。いいか悪いか、あるいは好むか好まないかに拘わらず、十数億の人間が話している言葉で電脳が使えないということは、考えてみれば一大事です。自ら電脳のない世界に引きこもるのは簡単ですが、世界から隔離されることに甘んじなければならない。日本語族の孤独感を一層深刻にしている原因の一つと言えない事もありません。このことでわたしは、太平洋戦争中に日本の軍部が行った英語禁止措置とアメリカ軍が設立した日本語学校過程を思い出さずにはいられませんでした。
「若者が台湾語ができない、話さない」と嘆いている人が少なくありません。確かに、若者の台湾語離れはとても深刻で、近年加速的なのを感じます。一方では台湾意識が上がっているのに、この現象をどう解釈したらよいか、わたしはわたしなりに考えてみました。結果、到達した結論は電脳のせいということになりました。漢字の入力法はいろいろ考案されています。わたしも日本語の電脳が出来るようになってから、なんとか漢字の電脳(中文)も打てるようにと願って、試みましたが、結局注音符号、いわゆる「ポ、ポ、モ」がもっとも直接的で早いことが分かりましたが、肝心の発音が正しくないため中々できません。今でも出来ない。中国では注音符号の代わりにローマ字を使うが、それは小学校からやっているからこれも問題がありません。発音通り打って漢字に変換すればいのです。ローマ字かカナで打って変換すれば、日本文ができる過程と全く同じではないがほとんど同じです。それがホーロー語(河洛話)ではできないのです。若者の台湾語離れの原因の一つがここにあります。最近は、携帯電話の飛躍的増加がこれに輪をかけています。いつでも、どこでも自由に電子通信ができるようになったため、伝言、メッセージ、挨拶、恋愛にまで携帯電話が活用されると、考えていることが直接文字になる北京語が断然優勢になります。もう、台湾語を話す機会がどんどん減っていくのがお分かりでしょう。
アメリカ軍の精神で、戦後まだ頭脳がやわらかい時期に一生懸命「国語」を勉強していたら・・と後悔しています。いまさら「国語」を、注音符号を勉強せよとは申しませんが、「坊主憎けりゃ袈裟まで」や、「敵性語」の境地から脱却して、IT時代を迎える用意が必要な時期になったのではないかと、このころ思うのです。
                         07/10/04

2009年8月29日 星期六

見切り販売騒動

閉店間際とか新鮮度保証時間(最近はこれを賞味期限という)が近づいた商品を安く売ることを見切り販売という。生鮮食品や弁当などでよくもちいられる。仮名文字が好きな日本人はセールといっているが。
最近大手コンビニチェーンが見切り販売を行った加盟店に出荷を停めるか制限するかの措置をとったので、公正取引委員会の摘発をうけた。
売れ残りになると店の損失になるので加盟店が見切り販売するのは当たり前の行動で、商店ならば昔からおこなわれていた。私たちの若いころには、閉店30分前にパン屋で安いパンを買うのが生活の智慧みたいになっていた。時刻と天気次第ではお目当てのものが買えないこともあるが、反対に思いがけない安さで買えることもある。日本や台湾ばかりでなく、ヨーロッパでもミュンヒエン駅の地下街で夕方、パンばかりでなくジュースやワインまでセールしていたのに出会ったことがある。20マルク(当時のレートでNT$300元)で抱え切れないくらい大量の食品をもらい、二人で二食食べた経験がある。庶民、とくに旅行者や学生や労働者にはありがたい。東京でもよく閉店前の弁当屋で半値の弁当を買った覚えがある。
コンビニ本社の措置は消費者の存在を無視したやりかたなので委員会の指導を受けたのは当然だが、ここでもう少し問題を考えて見ようと思う。
そもそも賞味期限というのがいつごろから決められるようになったのか分からないが(法的規制はない)、その起源は薬、特に抗生物質の有効期限にあると思われる。抗生物質の立役者だったペニシリンは不安定で、当時の精製技術では特殊保存法をとってもある期間しか効力を保証できなかった。その上、薬剤の性格上使用時に所期の効力をもっていなければならない。それで有効期限(Expire date)という規定を設け、この期限をすぎたものは使用しないようにした。いまでは精製技術が進歩したので、有効期限は3年とか5年になったが、初期の製剤は一年くらいしかなかった。薬局方によれば、有効期限は次の規定に従って決める。
  「検定合格の翌月から~年(または~ヵ月)」
従って、この期間中は効力(専門語では『力価』という)と品質が保証されているわけだが、じつは世間ではその起源を知らないためいろいろな問題を内臓している。第一は、それでは期限を過ぎたものは次の日(または月)には無効になるのか、ということ。次にそれを使えば副作用が出るのか、ということ。私の答えは二つとも「否」である。たとえば昨日まで有効だった薬が今日は効かないということはありえないし、副作用の問題も同様である。しかも医者でも薬剤師でも期限中は薬効が100%あると信じている。実際には大抵の抗生物質は期限の最終日に薬効が85%以上あれば合格なので(種類によるが)、逆にいえば期限前は最低力価以上あることになる。
さて、この有効期限がやがて他の薬品、特にビタミン類にまで拡大され、さらに食品に拡大されていろいろな問題をひきおこした。
その一つが前述の、昨日までよいものが期限をすぎればもう食べられなくなるという迷信であろう。食品の変化は薬よりも条件が多い。調理の材料、、品質、人員、場所、さらには空気条件まで影響してくるから、賞味期限と言うのは「お上」で決められるものではなく、多分に会社または店の経験と「良心」に負うところが大きい。保存条件も\まちまちで、さらにコンビニのように販売場所が分散している場合、配達までの時間、条件も影響するだろう。それを一律に賞味期限(弁当では時刻まで決められているらしい)をきめるのがそもそも不合理ではないか。店としては少しでも回収したい気になるのが当たり前なのに、値引きすればブランドの信用にかかわるとか、消費者がそれを待って正規の買い物をしないとか理由をつけて見切り販売を規制する。彼等の頭にあるのは会社の利益のみで基本的に消費者を馬鹿にした考えにもとづいている。そして結局委員会の指導により売れ残りの15%の代金を本社が負担することにおちついた。
しかし、貧乏人は考える。売れなかった分はどうするのだろう。答えは「まるごとゴミ箱に捨てる」のである。かくて年間650トンの十分食べられるが賞味期限という化け物数字を過ぎた弁当がゴミ箱に捨てられる。店が損するのは変わらない。最近此の種のたべものは出来るだけ回収するようにと業界が提唱しているがそれでも目標は従来45%廃棄していたのを22%に減らそうというだけ。神様が怒る前に日本人の先祖がまず怒るべきだろう。
ところで、去年から激増した、住むところでもなく、収入が僅かしかない路上生活者(昔はルンペンと称していたが、現代は企業と社会が意図的に作り出している)が、このまるごとゴミ箱に捨てられた弁当を「拾って」食べたらどうなるか、と貧乏人は考えてしまう。
理論的には、ゴミ箱が店の中にあるあいだは、店の所有物だからそこからとりだせば窃盗になるのではないか。アフリカの餓民に何千万ドル寄付しても目の前の餓えた同胞には手を差し伸べることもできない。妙な世の中になったものだと思う。                 09/07/25

2009年7月21日 星期二

9721 バーゼルから(2)

ZurichからBazelへ帰るべく、自動切符売機で切符を買って出口から切符を取り出そうとしたら、後ろから肩を叩く人がいる。振り返ってみると小柄な日本人らしいおばさんがニコニコして頭を下げている。手に何か書いた紙切れとお札を持っているが、二、三漢字があるほか‘かな’ばかりで読めない。英語で話掛けて見たが頭を振るだけ、(英語が通じないのだ!)紙切れの中にZurich 中央駅があったから切符を買って下さいませんかといっていることが分かった。多分飛行機で着いたばかりだろう。同じ東洋人だから(あるいは日本人と思ったのかも知れない)安心したのかも知れないが、事情は彼女が考えていたほどスムースには進行しなかった。彼女が持っていた紙幣はそれこそ手が切れるような、銀行からおろしたばかりのま新しいものなので自動販売機がうけつけないでもどったのだ。手まねで別の紙幣はと聞いたら財布を見せてみな新品だということを示すだけ。仕方ないから私の古紙幣と交換してやっと切符を手に入れた。行き先はGrindelwald、ユンクフラウへ行く中継駅である。途中までおなじ線路を走るから一緒にのって、万国共通語で聞きだした結果、彼女は{独り}で憧れのユンクフラウ付近をハイキングしてくるのだという。予定は22日間。私のほうがたまげた。最近、女性の一人旅も珍しくないが、キャリオンの鞄一つで22日もハイキングするのはいいとして、英語も通じないでどうするのかなあと心配になった。しかし、彼女は平気である。それに始終ニコニコしている。それを聞くと鞄から紙切れを一杯とりだした。日本字とドイツ語の対訳みたいで用事はこれで全部達成できるのだろう。
どういう人だろうと想像する。子育てがすんで自由になったから、かねてあこがれていたユンクフラウへいって付近をあるきまわって見ようとおもいたったのだろうか。登山用の折りたたみ式の杖までもっているからまあ大丈夫だろう。乗り換え駅で彼女は相変わらずニコニコと手を振って降りていった。思わず心の中で
Have a nice journey “!
と叫んでしまった。

(以上、Basel 在住の孫の嫁の最近の経験談。心配する前にうらやましいと思ったのは私にもそういう素質があるからかも知れない。)

2009年7月20日 星期一

追い出す

京都弁で「いらっしゃい」を「おいでやす」という(そうだ)。東京の人には「おいだす(追い出す)」と聞こえるからはじめての人はちょっと戸惑う。ところが先日、実際に有名食堂から追い出された経験をした。
ある人の招待で小さいが有名な食堂へ行った。長年の習慣で約束の時間5~10分前には着くようにしているが、この日、電車の接続がよすぎて15分前に着いてしまった。おもて通りに面した小部屋で料理人が二人シュウマイを作っており、奥のほうのカウンターに職員が一人いるだけ。
「何か御用ですか」と聞く。
「5時に招待されているのですが」
「いえ、、うちは5時半からです」
「あ、そう。でリンさんがリザーブしていると思いますが」
「ありません」
「じゃ、10人ぐらいだと思うが」
「10人なら1テーブルありますが、李さんです」
「あ、それでしょう。まだ早いようですね」
「5時半開店です」
「じゃぁ、それまで待っていますか」
「お客さんは5時からです。まだ15分あるから、そこら辺で散歩して下さい」
という次第で「まだ準備中ですから暫くお掛けになって下さい」と言うのでもなく、店を追い出された。
実は、招待を通知した係りは5時半になったことを後で知ったのだが、私に通知しなかったのだから非は当方にあるのだがそれでもねーと思わざるをえない。

それにつけて感じるのは、日系デパートのエレベーター嬢、私の知る限り彼女らの所作は30年来全然変わっていない。係りは当然何代目かになると思うが。
ついでに去年の夏、立山へ行った時の事を思い出した。、売店の壁に気に入った暖簾があったので、それを下さいといったら、手元の在庫を探して、
「お客様、申し訳ありませんが、在庫がありませんから他のでいかがですか」という。
「じゃ、そこにあるのを売ってくれませんか」
「いえ、あれは見本でもう2ヵ月そこに曝していますから、色も少しあせているかもかもしれません」
「いや、見たところが色はまだしっかりしているようですね。それをもらいます」
「少々おまち下さい」
と主任となにか話していたが、やがて戻ってきて、
「あのーお客様、見本でしたから5%引きいたします」
と結局消費税の分安くした。たいした額ではないが、客に与える印象は雲泥の差だった。

一般に華人は商売がうまいとよく言われるが、この二つの例からどちらがうまいか、歴然としていると思うのだが・・・。      09/07/02

台北で住所を探す

台北で住所を探す
廖 継思
台北市に長く住んでいる人でも、「どうも住所がみつからない」とこぼすことがある。数年前、私はパリと東京の住所表示について書いたことがある。東京の「町」を中心にした住所と西欧の「道路」を中心とした住所を比較した一文だが、皆さんあまり関心がなかったようだ。
東京に限らず、日本の都市は「町」を中心に表示している。普通、市→(区)→町→丁目→番地で構成されている。近年、アパートやマンションや高層ビルができてからさらに細かく「-1、」とか「-2」などで区切っている。私は東京しか知らないから東京のある友人のアドレスを例に取ると、
たとえば 『栄町一丁目三番地十の3』 は手紙の表記では面倒だから
     〈栄町1の3の10の3〉または<栄町1-3-10-3>
と書いて問題はないが(配達はプロがやっているから)、実際に訪ねていく場合を考えるとそう簡単にはいかない。地図で探して栄町が見つかったとしても3番地がそう簡単に見付からない。地図ではあらゆる番地が載っているわけではないし、3番地のとなりが2番地とか5番地とは限らないからである。幸いにして見付かったが今度は十の意味が分からない。アパートの棟の番号なのか、マンションの階なのか、現地に行ってみないと皆目分からないのだから。だから、かれこれ40年くらいつきあっている友人なのに私はまだ一人では彼の家にたどりつけないでいる。

前置きが長くなったが、アメリカや西欧では道路表示が基本だから、道路の在処(ありか)さえ見付かれば道を歩きながら目的の家に辿りつけるのである。長々と書くよりは実際に台北を例にとってみよう。
台北の住所表示は、 
路(街)→段→巷→弄→階(楼)→番号 
の順になっている。
路と街は基本的に同じだが、道幅によって分けられ、「路」は大きい道路、やや狭い道路は「街」になる。長い路はさらに段で区切ることがある。段の区切りは大抵広い道路に出会ったときに起こるからなれると見当が付く。市によっては段の代わりに一路、二路とするのもある(高雄市など)。アメリカでは普通段で区切らないので番号が4桁にもなるのも珍しくない。一度、5700台の番号に出合ったことがあったが、歩道の角に大きな柱に大きな字で表示していた。車社会だから遠くから、走っていても見付かるようにしているのだろう。
「巷」と「弄」は共に路地だが巷は路または街から分かれた路地、弄は巷からさらに分かれた路地である。路や街に面したところでは当然巷や弄がないことになるし、短い路や街では段は不要である。そして、いよいよ番号に辿りついた。そこが多層建築ならば表示は更に階(またはF,正式には楼)を表示することもある。
次に重要なのは路(または街)が南北や東西に分かれる点である。その分岐店は中山路(南北)と忠孝(東西)である。地図でこの二つの道路に線を引くと台北が東、西、南、北、に四分されることに気が付くだろう。
たとえば、東西方向に走る南京路は中山北路で南京東路と南京西路に別れる。同様に南北を貫く中山路は忠孝路で中山南路と中山北路にわかれる。
最後に番号にも規則がある。あらゆる番号は上記の分岐線から始まる。つまり南京西路も南京東路も、中山路から数えはじめ、起点に立って東に向け左方が奇数1,3,5,7・・・、右方が偶数2,4,6、8・・になる(西に向けば左が偶数右が奇数になる)。南北方向の道路ならば、北に向かって左側が偶数、右側が奇数になる。南に向けば左が奇数、右が偶数になる。建物の大きさが違うので、偶数番号の向かいが近い奇数とは限らない。途中で路地(巷)に出会えばその巷にもつづき番号がつく。たとえば15号の次の巷は17巷で、その次の家(またはビル)の番号は19号となる。弄の場合も同じ。この方法の利点はあと何軒で目的の家に着くかの予想ができることである。最後に実例である住所を探して見よう。
 <台北市延平北路二段144巷5号>へ行こうと思う。
○ 北路というから北半分にあることが分かる。
○ 延平北路は重慶北路という大きな通りと平行する南北の通り。
○ 二段ははじめに近いあたりだろう。多分南京路から二段になるだろう。
○ 144巷だから進行方向の左側だろう。
○ 弄はないから目的の家はこの巷に面した家にちがいない、そして5号は、表通りから入って3軒目のはずだ。
こうして簡単に目的の家が見付かった。
余談になるが、地図をながめているといろいろ面白いことが見付かる。
第一にあらゆる都市に「中正路」があるのに台北市には「中正路」がない(士林にあるのはあとで台北市に編入されたからである。いや、台北市にもあったのである。何故なくなったかというと、もともとは現忠孝路を経て現八徳路と続く台北市の目抜き通りが中正路だったが、この路がまっすぐになりずっと東に伸びると途中で「段」を設けて中正路を切らなければならない。それではあまりに「恐れ多い」からというわけで、忠孝路に改め別に八徳路を設けた。おべっか文化は昔から健在だった。ちなみに、おべっかは中国語では「拍馬尻」という。現状をみているとまさにずばりではないか。
第二に、大きな道路が続いているのに名称がちがうところがある、新生南路と松江路、中山南路と羅斯福路である。これは後で開通したか直線にしたためだった。

さあ、あすからあなたも道を探すベテランになる。頑張って!

もう少し余談を進める。
「町」表示の不便さは外国人ばかりでなく東京人でも痛感している。だからカーナビの普及率はおそらく世界でもトップクラスだろう。ある年、東京で友人を訪ねての帰り、電車の方が便利だと言ったのに、友人が親切に送ってくれるというからその精密なカーナビ(電話番号だけで連れて行ってくれた)で泊まっている家の近くまで行ったが、夜だから普段見慣れている家ではない。道路も新開地だからどの家も同じように見える。幸い、電話で連絡してそこに住んでいた学生が、思いがけない方向から現れて案内してくれてやっと家に入れた。カーナビとて万能ではないことを知った。困ることに日本の家々には表札というものがあって、ご丁寧に家中の人の名前が全部書いてある。この家にはおばあさんと主人夫婦と子供が3人いることが分かってしまうから、私が悪人ならば、いろいろ悪事に利用できそうだなあと感じてしまう。台北には表札というものを見かけない。アメリカでもヨーロッパでも同様なのだ。個人情報が取りざたされる現在、そのような表札をみる度に余計な心配までしてしまう。もっと困るのは下宿(または寄宿)している場合、住所にだれそれ方と書かないと配達されないことがあるのである。表札に載っていない宛名だからだそうだ。今更道路表示にあらためることも出来ないだろうから、日本人は永遠にこの不便と付き合って行かなければならないようだ。    ‘09/06/25

2009年7月11日 星期六

漢 字 は 語 る

漢字の元祖とされる甲骨文字の起源は7~8000年前まで遡るというが、少なくともここ1000年間漢字はほとんど変化がなかった。それが、二次大戦後ほぼ時を同じくして、漢字の二大使用国が漢字改革を行った。かくして、現在世界で通用している漢字は台湾の「繁字体」、中国の「簡字体」及び日本の「日本字体」の三種類がある。中国と日本はそれぞれの字体を知っていれば差し支えないが、台湾の日本語族は三種類ともできないと不便になった。難しいことは抜きにして、読むだけでも一大事なのである。
ところで、この時の文字改革だが、どうも不徹底であるか、行き過ぎがあったり、従来の系列から外れて可笑しくなっているのが間々ある。
しかし、改革をやった先生方はちゃんと理由があったにちがいないが、よく見ると、その後の世相から先生方に先見の明があったと思われるのがあって面白くなった。
その1.智慧→知恵    新しい教育を受けた世代は知識は豊かになったかも知れないが考えることがなくなった、つまり智慧がなくなったとしか思えない。結果、言わないでもいいことを言ったり、口をすべらせたりして風格を失っている。
たとえば「大智は大愚に似たり」ということわざは「大知は・・・」になって元来の意味を失うだろう。
その2.簡体字では「愛」から「心」をとってしまったので、「欲する」意味ばかりが強調されて世の中がぎすぎすして、人間が心を失っている。それが伝染して「誰でもいいから殺したくなった」と兵器でいったり、幼児を殺したりする世相が出現している。
その3.「世論」を「よろん」と読ませる類。「世論」ではどうしてもばらばらで、まとまりがない井戸端会議のイメージになる。昔からある世話、世間、世界を知っている人なら「せろん」と読みたくなるではないか。事実、閩南ごならば「世間」は「セーカン」、「世界」は「セーカイ」なのでわたしは今でもつい「世論」を「セロン」と読んでしまう。
きりがないからこのへんで止めるが、最後に文字遊びを一つ。

明の末代皇帝が、ある日お忍びで町へ出た。文字判断をしている屋台があったので、近づいてやおら筆をとると、「友」と書いた。
易者;「ふーむ、反になりそうですなあ」。
皇帝;「いや、これじゃない「有」だ」。
易者;「大明が半分いかれていますなあ」
皇帝;いやそのユウじゃない、「酋」のユーだ。
易者;「ますますいけません。至「尊」(皇帝の意)の足がありません」
こじつけだが、漢字とはこんな遊戯もできるから「官」が「民」をいじめるカッコウの材料になったらしい。

私 の 1949

1949年は中華民国が消滅し、中華人民共和国が誕生した年である。その経過と真相は、60年経った今でもはっきりしない部分がかなりある。
先日意外にも「私の1949」と題するドキュメンタリーが東森TV から放映された。出演者は何人もいなかったが、われわれが見たこともない映像がかなり入っている。また多分今まで発表できなかったことも少し報道されている。
500万の大軍を抱えていた国民党軍がそれこそ将棋倒しに敗退したのは、共産軍が来る前に司令官が部下を率いて集団投降した話は昔から数限りなく聞いているが、上海を攻撃に来た共産軍はたったの1400人程度だったと聞くと、全く信じられない。人心の向背がよく分かるし、内戦の特徴でもある。敵に利用されるのをさける為逃げる部隊はまず大きな穴を掘り軍馬を射殺して埋めた。埠頭に殺到する難民の群れ、ロープをよじ登る難民、トランクを海に投げ捨てる兵士(逃避行だから金の延べ棒が入っているかも知れないのに)、ロープに群がる難民に向かって機銃掃射する兵士、ロープから海へ落ちる民衆、どの場面をとっても地獄の再現に近い。12年前、日中戦争で南京が陥落した時?十万人日本軍に虐殺されたというが、案外このような場面が繰り広げられていたかも知れない。上海の埠頭で演じられた射殺、圧死、の数字は当然ながら記録にない。
共産軍が南京に入城したのは4月23日、上海占領は5月27日だったから上海での混乱は少なくとも1ヵ月は続いたはずだが、国民党軍や難民は一度に上海から逃げたわけでもない。最初に台湾に逃げてきたのは空軍だった。それも軍人だけでなく、家族も軍用機に乗せて真っ先に飛んできたのである。中にはダンサーもたくさんいた。その頃台湾各地に「新生社」という空軍のクラブができダンスを始めた。その後も四川や広東などからぞくぞく台湾へ逃げてきた。台中一中の後輩で軍官学校に入っていた学生は成都から広東、海南島をへて漸く台湾にたどりついた。軍や政府機関は学校を占領して住みついたが、民衆は空地があれば掘っ立て小屋を建てて雨露をしのいだ。空地という空地がすべて不法占拠され、学校までが一時休校になるなど、折角戦後の経済崩壊一歩手前で再建した経済がふたたび「反攻大陸」の名のもとに搾取の対象になった。私は当時台中の学校で教員をしていたが、それら敗残兵を収容するために教室を明け渡し、学校は夏休みを前倒しして休校した。椅子や机が燃料にならなかっただけ幸いだったというべきかも知れない。台湾の人民はいつ共産軍が海を渡って攻めてくるかとおびえる毎日だった。広々した旧第三大隊の練兵場は格好の難民キャンプになった(現練武路)。また台中市を貫通する二つの川、柳川と緑川の両岸は広い芝生道になっていたが忽ち掘立て小屋で埋め尽くされた。足らなくなると川側に向けてつっかい棒で伸ばしていった。難民キャンプ光景は1980年代まで続く。難民総数は200万人を越えたというが正確な数字は未だに発表されていない。
国民党の窮状を救ったのは、あくる年(1950)の6月25日に勃発した朝鮮戦争だった。アメリカは蒋介石軍の投入を断ったが、台湾海峡に第7艦隊を派遣して台湾を防衛した。
人民が自力で解決しなければならなかった難民キャンプが片付くのは20世紀も終わろうとしていたころだった。陳水扁が市長になったとき、難民キャンプになっていた日本人墓地を第14,15公園に更新したのだ。がそこまでの課程で莫大な税金が注ぎこまれている。たとえば、私が現在の住所に移ってきた1970年代、忠孝東路三段の建国路以東は車がやっと通れる道が一本残されている程度で、まわりはすべて不法建築だったし、金山路も完全に通じていなかった。現中央図書館は総統府のまん前にありながら難民キャンプと化して何十年、197? 年にやっと回収した。そのキャンプが燃えた夜、たまたま私はそばを通ったが、景気よく長い間燃えていた。噂によると蒋経国が火を点けさせたのだという。
ドキュメントの出演者の一人は、町へ買い物に行ったきり軍隊に拉致されて一緒に台湾へ渡ってきた。彼は台湾で退役、その子孫が大陸の故郷へ帰ったのは1988年、親戚訪問のための大陸行きが解禁した年だった。
もっとドラマチックなストーリーもある。大連で結婚式の当日に国民党軍に拉致された某氏は台湾で退役結婚し、その相手の女性も結婚して偶然やはり台湾にわたったが最近それぞれ配偶者をなくしてまた偶然知り合い正式に結婚式をあげたという。50年の歳月が流れていた。それでもかれは幸運だったのかもしれない。共産軍の捕虜にならずにすんだし、なによりも朝鮮戦争で人民志願軍にならずに生き延びたのだから。

2009年7月5日 星期日

「司馬遼太郎の坂の上の雲を読む」をよむ

NHKで大河ドラマに「坂の上の雲」を放映するというので、入院の機会に読み直した。三度目である。しかし最近それは大河ドラマではなくてスペシアルドラマであることがわかった。今年11月20日から年末にかけて計5回、更に2010年と2011年にまたそれぞれ4回、三年がかりで(合計13回)放映するという。
こんな題材で司馬遼太郎さんの伝えようとしていることを表現できるかと疑問に思っていた矢先、四月はじめの「アジアの一等国」ドラマでとんでもない偏向報道を見せつけられて、ますますその感を深くした。
そしてタイミングよく「坂の上の雲を読む」という本が出版された。’09年4月の刊行である。著者は谷沢永一、関西大學名誉教授、「宮本武蔵の読み方」などの本がある。
この本で教えられたことがたくさんある。僕たち凡人は小説の筋を追うのに一生懸命で往々著者の意図するところを見逃してしまう。それを谷沢氏はハイライトを再現して見せてくれる。おかげで「坂の上の雲」に対する認識が深まった。同時に大河ドラマでは司馬さんの意図するところは十分に表現できないだろうと感じた。この小説には明治の社会、国家の運営、民間の思想(とくにメディアのあり方)、軍部に対する批判が随所に出てくる。それも悪意の中傷ではなく過去の欠陥から将来の反省への手がかりを伝えたかった部分が多々あるが、NHKの偏向報道性格からすればどうもまた日本が侵略をした帝国主義者だったと自虐的に表現されそうである。、そもそも、司馬さん自身が、この小説は映画にしないでくれと望んでいたというから、このことを予期してそういう意向を伝えたのかも知れない。
「坂の上の雲」は大部分が日露戦争をテーマにしているが背景は日本近代史そのものである。長くなるので一々引用しないが、おもな項目を次に並べる。興味ある人は大河スペシヤルが放映される前にこの本を読むことをお勧めする。もっと興味がある人は「坂の上の雲」の原作を合わせ読むともっとよいだろう。

・ 日露戦争の原因は満州と朝鮮である
・ 日本は日露戦争ではじめて「近代」の恐ろしさに接した
・ 日露戦争は日本が勝ったのではなくロシアが負けてくれた
・ 日露戦争に勝ったことで日本軍部がつけあがった
・ 日露戦争に勝ったことで思い上がった日本軍部と国民
・ 情報を集めるだけで活用しなかった日本軍部の体質
・ 陸軍大學のエリートが国を誤った官僚軍人の温床
・ 陸大の成績の順位が昇進の標準になった(後に東大法学部の順位が官僚昇進の基準になる)

など。
私なりの乏しい知識では未だに分からないことが一つある。日本軍が開発した三八式小銃は精度がよいという評判だったが日露戦争には間に遭わず、日露戦争はほとんど三○式小銃で戦った。精度がよかったのは、一本一本が職人の名人芸にたよっていたからで、狙撃用には実際にテストして性能のよいものを選んだという。問題はその後30年間改良を加えるでもなく後の太平洋戦争でもそれを標準装備として使っていた点である。そして軍部は、特に陸軍は精神で勝てると思い、実際にもその方向に進んでいく。

冒頭に書いたように、私が「坂の上の雲」を読むのはこれで三度目である。こんなに「真面目に」読んだ小説は他にない。最初は日本海海戦の経過を追うために読み、二度目でようやく旅順戦と奉天戦の実態を知り、三度目で司馬さんが伝えたかった真意が漸く少し分かった。だから谷沢さんの言う「日本が勝ったのではなくロシアが負けてくれたのだ」がよく分かった。われわれも含めて長い間日本軍部はこれを大勝利として国民に教え、結果として国を誤ったとしか言いようがない。本当に勝ったのは日本海海戦だけだったのに。
ここまで書いて、実際には相手が不手際で負けてくれたのに、勝ったつもりで有頂天になった例が身近に起こったことを思いおこした。民進党の選挙である。詳しいことは省略するが。

全編を通じて東郷さんが言った名言が心に残っている。 
 <海戦では味方に落ちた砲弾しか分からないから当方の損害ばかりが強調される心理になる。実は敵にも損害を与えているはずなのにそれは見えない。その心理状態を克服した方が勝者になるのだ>
戦争ばかりでなく、あらゆる場面に通じる真理だと思う。
                           “09/06/12

いま、ローマ人の物語が面白い

ローマは永年にわたってヨーロッパとアジアの一部を支配した大国で、その影響は今日まで至るところに残っている。身近なところではアルファベットや英語やフランス語などの単語とか学名である。。
ローマ帝国の盛衰については、ギボンの「ローマ帝國衰亡史」という大作があり、知識人必読の本の一つに数えられているが、凡人にはとてもそれを読破する基礎と気力がない。
幸い塩野七生(しおの・ななみ)が十五年かけて物語風に書いた全15巻の「ローマ人の物語」が文庫版になった(2003年、6月)ので早速買い求めて読んだ。前に椎間板ヘルニアの手術をした機会に第15冊まで読んだあと、なぜか毎年出版される本だけはそろえたが、読む方は停頓してしまった。今度の入院でまたとりあげて、気が付いてみたら10冊もよんでいた。いま、帝政になって約二世紀、いわゆる賢帝の時代が終わろうとしているところである(第26冊)。
「ローマ人の物語」は塩野七生さんが言っているように学術書ではないが、ローマの生い立ちと変遷は忠実に辿っている。その長い歴史の中心人物はなんと言っても執政者(後半では皇帝)で、時代を作っていった立役者であった。しかし、その背景とか施政の考え方が随所に現れるのが面白いし、定説を覆すような解釈も入るのがいい。たとえば悪い皇帝の代表と思われていたネロは、たしかに妻や義母を殺した点では悪党だが、国家の運営ではちゃんと皇帝の責務である「安全の保証と食物の確保」は実行した。
ローマは今から約2800年前、BC753年に建国された。中国では周の幽王の時代、日本はまだ縄文時代の真っ只中にいた。ローマ人の祖先はトロイ戦争で生き残った一人のトロイの勇士ということになっている。どの国でも建国には必ず神話がつきまとう。それが往々何百年もブランクが出てその埋め合わせに苦労する(日本も神武天皇は何百歳も生きないと辻褄が合わなかった)。ローマも例外ではなく、建国の時期とトロイ戦争の間には400年の隔たりがあるがそこは矢張りうまくつくろったようだ。
分かっているところでは、初代の王ロムロスは羊飼いの集団のボスだったらしい。この集団は、技術的にすぐれて(鉄器を使っていた)エトルリア人(北方)や航海に長けたギリシャ人(南方)が見向きもしなかったローマの地に移り住んだ。ローマという地名や民族名、国名は第一代の王・ロムロスに起因する。初期のローマ人は男が多かったのか、時々隣のエトルリアに攻め込んでは女を略奪した(拉致?)。このため何度も戦争になったが、四度目の戦争では略奪された女が中に入って和解する。夫(ローマ人)と親・兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないという理由で。両国は和解し平等な合併国家を形成する。
(注)今日、西洋の結婚式で花婿が花嫁を抱き上げて敷居をまたぐ習慣は当時の拉致の習慣の名残だという。台湾でも、花嫁は結婚式の翌日里帰りするが、そのとき実家の兄弟や友人が婚家へ花嫁を迎えに行くのは拉致された花嫁を奪い返す意味があるといわれている。して見ると古代では略奪婚が一般的だったのかもしれない。
初期のローマ王はいずれも優れた人だったようで、ローマ一千数百年の基礎はほとんどこの最初の五百年に形成されている。たとえば政治と宗教の分離、元老院と市民集会の設置、法の制定など、政治形態がその後王政から共和政になり更に帝政に変わってもこの原則は守られた。一言でいって、ローマの王や執政官、皇帝の最大にして基本的な責務は、国家の安全を守り人民の食を確保することにあった。なぜ、
  知力ではギリシャ人に劣り
  体力ではケルト人に劣り
技術力ではエトルリア人に劣り
経済力ではカルタゴ人に劣っていた
ローマ人だけが広大な地域を領有して大帝国を築き、長期にわたってそれを維持できたか?それを書きたかったと塩野七生さんは言う。
  
文庫版は一冊約200ページ、ポケットに入れても、ハンドバッグに入れてもじゃまにならない程度のサイズ、物語方式だから読みやすいが、登場人物が皆ラテン読みなので慣れない点もある。たとえばシーザーはカエサルになっている。アルファベットではCaesar。また人名も長ッたらしいがこれも挑戦の一つ。読み進む他ない。

政治と宗教の分離だが、ローマが強大を維持できた要素の一つがローマ人の多神教だったのではないかと私はひそかに思っている。なにしろ何十万ともいわれる神々がいたから、他の宗教を敵視したり、他の神を信じる人を自分の宗教に改宗させようとしない、抱擁力をもっていた。こんな神様もいたという一つだけエピソードがある。夫婦の神様もいた。
夫婦喧嘩になると相手にしゃべる機会を与えないように二人が競って喋り捲る現象は世界中同じらしい。これじゃどちらに理があるのか分からない。しゃべり疲れると夫婦して神様のところへいく。神様の前では一度にしゃべるのは一人という原則がある。一方がしゃべっている間他方は聞いていなければならない。つまり冷静にならざるをえない。すると「ふーむ、あいつの言うことも一理あるなあ」と思うかも知れない。かくして帰るときは腕を組んで仲良く帰ることになる。審判員は「かみさま」なのである。
今読んでいるのはいわゆる賢帝時代が終わろうとしているAC130年代前後で、キリスト教がまばらにローマ人のなかに侵透し始めた時期であるが、宗教的には一神教であるユダヤ人ともすでに何百年にもわたって共存してきた。何度かユダヤ戦役があったがみなユダヤ側がしかけた戦争だった。
(今日に至ってもユダヤ教問題は解決されていない)
だからまだローマの衰亡には距離があるが、衰亡のはじめは一神教のキリスト教を公認してからではなかったかと思うことがある。コンスタンティヌス帝はキリスト教を最初に公認したが、帝は他教を禁ずることはしなかった。AC392年にテオドシウス帝が異教排除をするまでの80年間ギリシャ、ローマ、シリア、エジプト、キリスト教、ユダヤ教各宗教は共存していたのである。この間ローマ人民は平和と繁栄を享受し、歴史家によれば、地球でも稀なよき時代であったという。
よき時代とは、皇帝は国(人民)の安全と食べ物を保証し、人民はローマ市民であると否とにかかわらず、安全且自由に国内を旅行出来、皮膚の色や身分で差別されることなくローマ人が造成した街道、橋、水道などのインフラストラクチャー(インフラ)を利用できた。全版図で8万キロメートルに及ぶ公道、無数の橋、都市に流れ込む水道其の他を今日でもわれわれはみることができる。それらはほとんどがローマを守る軍団兵によって造成されたものなのである。破壊された多くはキリスト教徒の偏見(異教徒の偶像崇拝)とメンテナンスの不備が原因であった。
そういった記述を呼んでいると、今日のイタリア人が本当にローマ人の後裔なのか、という感慨にしばしばとらわれた。その間の詳細をこの短文でつづることはとてもできないから、興味ある人は原作を読むことをおすすめする。
今よんでいうのはAC4世紀のころ、いよいよローマが衰亡への道を転がり始める時代にかかったところ。未出版の分を含めてあと何冊くらいあるか、いつ完了するか分からないが。