2009年7月11日 星期六

私 の 1949

1949年は中華民国が消滅し、中華人民共和国が誕生した年である。その経過と真相は、60年経った今でもはっきりしない部分がかなりある。
先日意外にも「私の1949」と題するドキュメンタリーが東森TV から放映された。出演者は何人もいなかったが、われわれが見たこともない映像がかなり入っている。また多分今まで発表できなかったことも少し報道されている。
500万の大軍を抱えていた国民党軍がそれこそ将棋倒しに敗退したのは、共産軍が来る前に司令官が部下を率いて集団投降した話は昔から数限りなく聞いているが、上海を攻撃に来た共産軍はたったの1400人程度だったと聞くと、全く信じられない。人心の向背がよく分かるし、内戦の特徴でもある。敵に利用されるのをさける為逃げる部隊はまず大きな穴を掘り軍馬を射殺して埋めた。埠頭に殺到する難民の群れ、ロープをよじ登る難民、トランクを海に投げ捨てる兵士(逃避行だから金の延べ棒が入っているかも知れないのに)、ロープに群がる難民に向かって機銃掃射する兵士、ロープから海へ落ちる民衆、どの場面をとっても地獄の再現に近い。12年前、日中戦争で南京が陥落した時?十万人日本軍に虐殺されたというが、案外このような場面が繰り広げられていたかも知れない。上海の埠頭で演じられた射殺、圧死、の数字は当然ながら記録にない。
共産軍が南京に入城したのは4月23日、上海占領は5月27日だったから上海での混乱は少なくとも1ヵ月は続いたはずだが、国民党軍や難民は一度に上海から逃げたわけでもない。最初に台湾に逃げてきたのは空軍だった。それも軍人だけでなく、家族も軍用機に乗せて真っ先に飛んできたのである。中にはダンサーもたくさんいた。その頃台湾各地に「新生社」という空軍のクラブができダンスを始めた。その後も四川や広東などからぞくぞく台湾へ逃げてきた。台中一中の後輩で軍官学校に入っていた学生は成都から広東、海南島をへて漸く台湾にたどりついた。軍や政府機関は学校を占領して住みついたが、民衆は空地があれば掘っ立て小屋を建てて雨露をしのいだ。空地という空地がすべて不法占拠され、学校までが一時休校になるなど、折角戦後の経済崩壊一歩手前で再建した経済がふたたび「反攻大陸」の名のもとに搾取の対象になった。私は当時台中の学校で教員をしていたが、それら敗残兵を収容するために教室を明け渡し、学校は夏休みを前倒しして休校した。椅子や机が燃料にならなかっただけ幸いだったというべきかも知れない。台湾の人民はいつ共産軍が海を渡って攻めてくるかとおびえる毎日だった。広々した旧第三大隊の練兵場は格好の難民キャンプになった(現練武路)。また台中市を貫通する二つの川、柳川と緑川の両岸は広い芝生道になっていたが忽ち掘立て小屋で埋め尽くされた。足らなくなると川側に向けてつっかい棒で伸ばしていった。難民キャンプ光景は1980年代まで続く。難民総数は200万人を越えたというが正確な数字は未だに発表されていない。
国民党の窮状を救ったのは、あくる年(1950)の6月25日に勃発した朝鮮戦争だった。アメリカは蒋介石軍の投入を断ったが、台湾海峡に第7艦隊を派遣して台湾を防衛した。
人民が自力で解決しなければならなかった難民キャンプが片付くのは20世紀も終わろうとしていたころだった。陳水扁が市長になったとき、難民キャンプになっていた日本人墓地を第14,15公園に更新したのだ。がそこまでの課程で莫大な税金が注ぎこまれている。たとえば、私が現在の住所に移ってきた1970年代、忠孝東路三段の建国路以東は車がやっと通れる道が一本残されている程度で、まわりはすべて不法建築だったし、金山路も完全に通じていなかった。現中央図書館は総統府のまん前にありながら難民キャンプと化して何十年、197? 年にやっと回収した。そのキャンプが燃えた夜、たまたま私はそばを通ったが、景気よく長い間燃えていた。噂によると蒋経国が火を点けさせたのだという。
ドキュメントの出演者の一人は、町へ買い物に行ったきり軍隊に拉致されて一緒に台湾へ渡ってきた。彼は台湾で退役、その子孫が大陸の故郷へ帰ったのは1988年、親戚訪問のための大陸行きが解禁した年だった。
もっとドラマチックなストーリーもある。大連で結婚式の当日に国民党軍に拉致された某氏は台湾で退役結婚し、その相手の女性も結婚して偶然やはり台湾にわたったが最近それぞれ配偶者をなくしてまた偶然知り合い正式に結婚式をあげたという。50年の歳月が流れていた。それでもかれは幸運だったのかもしれない。共産軍の捕虜にならずにすんだし、なによりも朝鮮戦争で人民志願軍にならずに生き延びたのだから。

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