2009年7月5日 星期日

いま、ローマ人の物語が面白い

ローマは永年にわたってヨーロッパとアジアの一部を支配した大国で、その影響は今日まで至るところに残っている。身近なところではアルファベットや英語やフランス語などの単語とか学名である。。
ローマ帝国の盛衰については、ギボンの「ローマ帝國衰亡史」という大作があり、知識人必読の本の一つに数えられているが、凡人にはとてもそれを読破する基礎と気力がない。
幸い塩野七生(しおの・ななみ)が十五年かけて物語風に書いた全15巻の「ローマ人の物語」が文庫版になった(2003年、6月)ので早速買い求めて読んだ。前に椎間板ヘルニアの手術をした機会に第15冊まで読んだあと、なぜか毎年出版される本だけはそろえたが、読む方は停頓してしまった。今度の入院でまたとりあげて、気が付いてみたら10冊もよんでいた。いま、帝政になって約二世紀、いわゆる賢帝の時代が終わろうとしているところである(第26冊)。
「ローマ人の物語」は塩野七生さんが言っているように学術書ではないが、ローマの生い立ちと変遷は忠実に辿っている。その長い歴史の中心人物はなんと言っても執政者(後半では皇帝)で、時代を作っていった立役者であった。しかし、その背景とか施政の考え方が随所に現れるのが面白いし、定説を覆すような解釈も入るのがいい。たとえば悪い皇帝の代表と思われていたネロは、たしかに妻や義母を殺した点では悪党だが、国家の運営ではちゃんと皇帝の責務である「安全の保証と食物の確保」は実行した。
ローマは今から約2800年前、BC753年に建国された。中国では周の幽王の時代、日本はまだ縄文時代の真っ只中にいた。ローマ人の祖先はトロイ戦争で生き残った一人のトロイの勇士ということになっている。どの国でも建国には必ず神話がつきまとう。それが往々何百年もブランクが出てその埋め合わせに苦労する(日本も神武天皇は何百歳も生きないと辻褄が合わなかった)。ローマも例外ではなく、建国の時期とトロイ戦争の間には400年の隔たりがあるがそこは矢張りうまくつくろったようだ。
分かっているところでは、初代の王ロムロスは羊飼いの集団のボスだったらしい。この集団は、技術的にすぐれて(鉄器を使っていた)エトルリア人(北方)や航海に長けたギリシャ人(南方)が見向きもしなかったローマの地に移り住んだ。ローマという地名や民族名、国名は第一代の王・ロムロスに起因する。初期のローマ人は男が多かったのか、時々隣のエトルリアに攻め込んでは女を略奪した(拉致?)。このため何度も戦争になったが、四度目の戦争では略奪された女が中に入って和解する。夫(ローマ人)と親・兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないという理由で。両国は和解し平等な合併国家を形成する。
(注)今日、西洋の結婚式で花婿が花嫁を抱き上げて敷居をまたぐ習慣は当時の拉致の習慣の名残だという。台湾でも、花嫁は結婚式の翌日里帰りするが、そのとき実家の兄弟や友人が婚家へ花嫁を迎えに行くのは拉致された花嫁を奪い返す意味があるといわれている。して見ると古代では略奪婚が一般的だったのかもしれない。
初期のローマ王はいずれも優れた人だったようで、ローマ一千数百年の基礎はほとんどこの最初の五百年に形成されている。たとえば政治と宗教の分離、元老院と市民集会の設置、法の制定など、政治形態がその後王政から共和政になり更に帝政に変わってもこの原則は守られた。一言でいって、ローマの王や執政官、皇帝の最大にして基本的な責務は、国家の安全を守り人民の食を確保することにあった。なぜ、
  知力ではギリシャ人に劣り
  体力ではケルト人に劣り
技術力ではエトルリア人に劣り
経済力ではカルタゴ人に劣っていた
ローマ人だけが広大な地域を領有して大帝国を築き、長期にわたってそれを維持できたか?それを書きたかったと塩野七生さんは言う。
  
文庫版は一冊約200ページ、ポケットに入れても、ハンドバッグに入れてもじゃまにならない程度のサイズ、物語方式だから読みやすいが、登場人物が皆ラテン読みなので慣れない点もある。たとえばシーザーはカエサルになっている。アルファベットではCaesar。また人名も長ッたらしいがこれも挑戦の一つ。読み進む他ない。

政治と宗教の分離だが、ローマが強大を維持できた要素の一つがローマ人の多神教だったのではないかと私はひそかに思っている。なにしろ何十万ともいわれる神々がいたから、他の宗教を敵視したり、他の神を信じる人を自分の宗教に改宗させようとしない、抱擁力をもっていた。こんな神様もいたという一つだけエピソードがある。夫婦の神様もいた。
夫婦喧嘩になると相手にしゃべる機会を与えないように二人が競って喋り捲る現象は世界中同じらしい。これじゃどちらに理があるのか分からない。しゃべり疲れると夫婦して神様のところへいく。神様の前では一度にしゃべるのは一人という原則がある。一方がしゃべっている間他方は聞いていなければならない。つまり冷静にならざるをえない。すると「ふーむ、あいつの言うことも一理あるなあ」と思うかも知れない。かくして帰るときは腕を組んで仲良く帰ることになる。審判員は「かみさま」なのである。
今読んでいるのはいわゆる賢帝時代が終わろうとしているAC130年代前後で、キリスト教がまばらにローマ人のなかに侵透し始めた時期であるが、宗教的には一神教であるユダヤ人ともすでに何百年にもわたって共存してきた。何度かユダヤ戦役があったがみなユダヤ側がしかけた戦争だった。
(今日に至ってもユダヤ教問題は解決されていない)
だからまだローマの衰亡には距離があるが、衰亡のはじめは一神教のキリスト教を公認してからではなかったかと思うことがある。コンスタンティヌス帝はキリスト教を最初に公認したが、帝は他教を禁ずることはしなかった。AC392年にテオドシウス帝が異教排除をするまでの80年間ギリシャ、ローマ、シリア、エジプト、キリスト教、ユダヤ教各宗教は共存していたのである。この間ローマ人民は平和と繁栄を享受し、歴史家によれば、地球でも稀なよき時代であったという。
よき時代とは、皇帝は国(人民)の安全と食べ物を保証し、人民はローマ市民であると否とにかかわらず、安全且自由に国内を旅行出来、皮膚の色や身分で差別されることなくローマ人が造成した街道、橋、水道などのインフラストラクチャー(インフラ)を利用できた。全版図で8万キロメートルに及ぶ公道、無数の橋、都市に流れ込む水道其の他を今日でもわれわれはみることができる。それらはほとんどがローマを守る軍団兵によって造成されたものなのである。破壊された多くはキリスト教徒の偏見(異教徒の偶像崇拝)とメンテナンスの不備が原因であった。
そういった記述を呼んでいると、今日のイタリア人が本当にローマ人の後裔なのか、という感慨にしばしばとらわれた。その間の詳細をこの短文でつづることはとてもできないから、興味ある人は原作を読むことをおすすめする。
今よんでいうのはAC4世紀のころ、いよいよローマが衰亡への道を転がり始める時代にかかったところ。未出版の分を含めてあと何冊くらいあるか、いつ完了するか分からないが。

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