2008年4月30日 星期三

バーゼル(Bazel)から

バーゼル(Basel)から

(はじめに)  最近バーゼルから興味ある便りが相次いでとどいた。台湾人にはいささか耳が痛いことなので日本語に訳してみた。

その1
ある年、スイス・バーゼルで開かれた商品展示会に参加した時の話。
中年とおぼしき母親に手を引かれた坊やが、わが社のブースの前で立ち止まったまま動かない。一秒毎に鶏が米粒をつつくデザインの目覚まし時計に見入ったのである。坊やが目を輝かせて、しきりに母親の腿をつねるのはどうやら買ってくれと催促しているらしい。展示会は明日で終わるし、わたしも身に覚えがあるから、その目覚ましを取り出して坊やに上げようとしたら、お母さんは、きっぱりと、しかし鄭重に断った。そしてわたしが気を悪くしないかと心配したのか、このようにいった。
 「いい時計です。ただスイス人は、必要でないものは買わないようにしつけられています。また、子供の不合理な欲望を満足させることはしません」
坊やが頭を垂れて立ち去る後ろ姿を見て、「このお母さん、ちょっとオーバーじゃないか」と思った。
次の日、主催者招待の打ち上げパーティに参加したとき、わたしは妙な現象を発見した。皆さんが持っているワイングラスの中身はみんなビールなのだ。そのわけをきいてびっくりした。
 「バーゼル人は商談するときはビールしか飲みません。ワインは高すぎるのです。家でもワインはあまりおきません。清教徒の信条にも反しますし・・・」
それから、彼はスイス人の卵の茹で方を教えてくれた。
「鍋に1cmくらいの水を入れ、水が沸騰したらヒーターを切って、あとは余熱で茹でるのです。電気代が半分ですみますよ」
世界一の国民所得を誇るのも無理がないと痛感した。
また、ある日、わが社の商品をたくさん買って引き取りに来たボスが、若い人を連れてきた。その子は不注意で梱包の鉄バンドで指を切ったが、ボスはただ一言「バンドをつけとけ」と言ったきり作業を続けさせた。「ひどいボスだなあ」と思ったが、作業が済んでからその子は彼の子供であることが分かった。「学校が臨時休校になったからね、見習いに連れてきたのだ。日当は払っているよ」、と屈託がない。その日、息子は舶来のジーンズを着けていたが、「これは親父がくれたものじゃないよ。去年僕が隣の家の雪下ろしを手伝って稼いだ金で買ったんだ」と自慢していた。苦労して稼いだ金だから、見栄で無駄遣いすることはない。
展示会の後ジュネーブへ。国連欧州本部の所在地で年に何千回も国際会議が催される都市だが、レマン湖の水が実にきれいなのに驚く。ある銀行家が言った。スイスのウォッチはただ一つの発明のおかげだ。スプリング。エネルギーを貯蔵できさらにそれをゆっくり放出できることがスイスの時計の基礎であり、スイスが常に発展の力を保てるのもそのためだ。
(ある実業界の人の述懐による)

その2
スイスでアルバイト。
バーゼルのデパートで宝石、ウォッチの展示会が催され、アルバイトを募集していたので応募してみた。期間は10日間、仕事はレジと包装である。宝石も時計(特に腕時計)はスイスを代表する産業なので、定期的にどこかで展示会が挙行されている。近年、中国や香港からの客を多くなったので、中国語を話すアルバイトが必要になった。
私はバーゼルに来てやっと半年足らず、ドイツ語は初歩しか出来ないのにつとまるかと心配したが、接するお客さんは地元の人も多いから、インタヴューの女性はドイツ語でゆっくり話してくれた。何とか聞いて分かる程度だから、結果如何と思っていたが、間もなく、採用するから、講習に来てくださいという通知を受け取った。内心、黒い髪の毛で黄色い肌のお客さんだけ相手にするかと思っていたが、実際にはカウンターに立って、雑多なお客を相手にしゃべらなければならないし、同僚ともドイツ語で話さなければならないことが分かった。今更やめたともいえないから、ここは面の皮を厚くしてやる以外方法がないようだ。
アルバイト第一日、デパートを入ったところにはスイス製腕時計、スイスナイフ、それに山と積み上げたチョコレートがあった。勤務場所はここである。スイスの住民は、こんな時特別割引が在るから、まとめ買いする習慣があるのか、開店と同時になだれ込んできたのは地元の人たちばかり。チョコレートなどはキロ単位で買っていく。それがスイス訛り丸出しのドイツ語で早口にしゃべる物だから、半分も聞いて分からない。幸い、一緒に立っている店員がてきぱき処理してくれるので、何とか対応できる。
因みに、どの本にも「スイス人の75%はドイツ語を話す」と書かれているが、実情はそこで暮らした人だけが分かる。バーゼルはもちろんドイツ語圏で、
ライン川の向こうはドイツ領だが、彼らのドイツ語は北京語と台湾国語よりも差が大きい。次第に、応対は彼女に巻かせて、私は専ら包装係りになってしまう。
ある日の午後、私の出番がやってきた。大きな声で喚きながら(あれは絶対話しながらとは言えない)、一群の黒髪、黄肌そして私が聞いて分かる言葉を話していた。かれらのお目当ては前列のケースに並んだスイス製ウォッチ、これを3つ、あれを2つと争って指差す。早くしないと他人に買い取られてしまうのを恐れるかのように。台湾人の海外旅行が、制限着きだが許可された当初、スイスの時計店で棚にある時計を全部下さいと言って店員に断られた話を思い出した。40年ばかりタイムスリップした。
かの有名なスイスナイフもお目当ての一つである。チョコレートにはまだなじみが薄いのか、あまり人気がない。レジ係りの同僚が計算して、金を受け取り、私が専ら包装を担当する。少し手間取ると「早くしろ!」と例の「私が聞いて分かる言葉」が飛んでくる。それもデパート全体が聞こえるくらい大声である。幸い、こんな客はそんなに頻繁ではなかったので無事勤まった。
ついに展示会最終日が来た。地元の人がまとめ買いにたくさん来る。どうして期間中にか来ないのですか、と同僚に聞くと、会期中はなるだけ他所の人に買ってもらうのを願っているのですよ。あのチョコレートを買っているおばあ
さんを見て・・・、あのおじいさんも・・・何キロも買っているでしょう。今日は最終日だから割引があることを知っているのですよ。との答え、実際スイス人は愛国心が強い。彼女は、「チョコレートにミルクを加えたのはスイス人ですよ」と自慢気に語っていた。
アルバイトでドイツ語がうまくなったでしょう、と聞かれると、答えはNoである。発音も文法もちがうバーゼル・ドイツ語ではキーワイドをききわけるのが精一杯。ある日、おばあさんがしきりに前のお客さんを指差して何かいっているが、「土語」なのでどうしても分からない。おばあさんどうやら怒り心頭に発しそうなので同僚にパス、何のことはない、あのお客さんと同じ袋に入れて下さいと言っていたのだ。
十日間のアルバイトが無事おわった。給料はまだもらっていないのに、従業員割引でワンサと買い物をしてしまった。ワインももちろん欠かせない。毎晩夫と寝酒が飲める、これがアルバイトの成果といえばそうかもしれない。
(孫の嫁のBlogから)

2008年4月24日 星期四

417  その汽車待った!
廖 継思

「おーーい、その汽車待った、わしは村長だぞ・・・」
と発車する汽車を停めた村長さんの笑い話がある。ところが、現実にスイスで汽車の出発を?秒停めた猛者がいたのだ。私の孫の嫁である。
今年の二月、長女は旧正月の長休暇を利用して、去年スイス・バーゼルの研究所に就職した息子(私の孫)の家を根拠地にして、スイス各地へ日帰りの旅を楽しんだ。新婚の嫁は、語学勉強中で案内役にはもってこいだった。スイス国内の汽車ネットはくまなく張りめぐられているので、バーゼルはいわば辺境に位置しているにもにもかかわらず、日帰りが可能だったのである。
その日、Zurichからバーゼルへ帰る列車は終列車だった。時刻表によればn番ホームから発車するとある。しかし、時間が近づいたのに、ホームにはほかの乗客が一人もいない。念のため時刻表を見直すとこのホームから出るのは土、日だけであとはmホームからということが分かった。見るとその汽車はまさにmホームに入ったところである。さあ、大変この列車をはずすともう汽車がない。小母さん連中は動きが鈍いから、若い嫁がまず駆けて行った。あと1分で発車である。駅の中といえども水があるところは凍っていて滑るから
普通のように駆けるわけにもいかない。小母さんたちはもっと慎重だ。
嫁はどうにか間に合ったが、まず車掌をつかまえて、事情を説明、「ちょっと待って・・・」と懇願した。車掌は時計と睨めっこしながら、笛を口へ持っていこうとする。しかし、嫁は知っていた。車掌が車内に入って戸を閉めない限り汽車は動かないことを。嫁はスイスへ来てまだ半年、語学学校に通っているがドイツ語はほとんど分からない。それもあって、ゆっくりとドイツ語にフランス語を交えて車掌に説明することで時間を稼いだ。車掌も若いレディの前でで、礼儀正しく聞いている。そうこうしているうちに小母さんたちが追いついた。汽車に飛び乗って、車掌に「Danke Schon」を連発して、汽車が動いた。待たせたのは1分もなかったらしいが、定刻より少しおくれたかも知れない。無事バーゼルに帰りついたのは、11時を過ぎていた。バスはまだ走っていた。
実は、私も1995年秋にスイスに旅行した時同じような経験をしている(汽車を停めたのではなかったが)。
インターラーケン東駅からハーダー山行きのケーブルで山頂まで行ったが、展望台からの眺めが期待はずれ、しかし、帰りのケーブルは6:30とあったからのんびりしていたら、展望台前の時刻表の6:30の前に小さな星が付いている。よく見ると、それぞれは7月と8月だけで、今(10月)は6:00が最終便なのだ。あわてて、半分駆け足で駅まで急ぐ。奥さん連には気の毒だったがこれを外すと、2時間くらいハイキングさせられるのだからしかたない。発車寸前やっとケーブルに間に合って東駅に降りることができた。
もう一度は、ChurからZurichへ行く時。今度のケース同様、指定ホームで待っていたが、時刻が迫っているのにホームには乗客が一人もいない。おかしいと思ってホームにある時刻表で確かめて見たら、10月からホームが変わっていた。
観光の国、スイスではシーズンとノンシーズンで列車の停まるホームや最終便の時刻が変わることが多いらしい。表を見る場合、小さな星記を見落とさないよう注意が必要だ。
でも、汽車を待たせる経験はそうざらにあるものでまない。貴重な体験である。 ‘08/04/17

2008年4月23日 星期三

2008年4月11日 星期五

台北きょろきょろ(2)

331 台北きょろきょろ(2)
台北のおのぼりさん
101ビル
この世界一高いビルが竣工してから2年も経つのに、台北に住むおのぼりさんはまだ行ったことがない。こんども先輩を案内してはじめて訪れた。
101ビルは高さ508m、敷地9158坪(30.277平方m)、台北のいたるところから見える。実際に高いと実感するのは郊外から眺めた時だった。年末に猫空から見た時、山並みの向こうににょきっとほとんど全容を見せていたので今更のように高いと認識した。
5階は食堂街である。5時すぎ、その一軒に入ったが、客が一人もいない。大丈夫かなあと心配になったが、7時に 店を出る頃には席が半分くらい埋まっていた。別の飲茶の店はいっぱいで喧騒をきわめていた。建物も高いが、値段も高いのにここでたべる人が多いのに驚く。
89階の展望台まで行く。世界一早いと称するエレベータ(1010m/分)で39秒で着いた。少し曇り気味の天気だが夜景は十分楽しめた。すくなくとも東京のサンシャインビルの展望台からの眺めよりもいい。サンシャインには二度ばかりあがったが、スモッグで方角さえ禄に判別できなかった。以後敬遠している。
音声ガイドが借りられるが、じっくり眺めるためには一ヶ所毎に切らないと追いついていけない。先輩の奥さんは次の説明スポットまでかけ足でいって、ガイドに追い回されていた。
独自の耐震装置がおもしろかった。あらためて、この高さでは台風のかぜ当たりは大変だろうと悟る。耐震はもちろん、耐風圧も必要で秒速60mの風に耐えるという。そのため、風圧ダンパーがあり、380本の柱は地下80mまで達し、岩盤の下30mまで達しているのもあるという。
まあ、台北に住んでいるからには一度は行って見るスポットだろう。今ドバイでこれを凌駕するビルを建設中だそうだから、世界一高いうちにいってみるべきだろう。

竹子湖
陽明山は数えきれないくらいいっているのに、竹子湖にはまだ足を踏み入れていない。かつて蓬莱米の原種保存田があることで有名だったが、のちに各農事試験場で保存するようになり、次にキャベツなどの高地蔬菜の栽培に転向した。今はカーラーの栽培と体験用の観光地として繁盛している。もっとも竹子湖へいったのはカーラーが目的ではなく、農業地理を研究している先生を案内していった。平地ではやや汗ばむ天候が、山の上では霧のなかでかなり寒い。用心して厚着していったのが役に立った。
さくらがぽつんぽつんと咲いているし、カーラーも満開。山芋収穫後の道具が田んぼに放置されている。
以前、山芋の栽培で最大の難点は、成長に時間がかかることと、収穫のときであった。深く地中に入った芋は往々長さ60cmにも達する。それを傷つけないように掘り起こすのは至難の技だった。これを一気に解決したのが、ヴィニール管をあてがって「横に」成長させた方法だった。横方向なので成長が早く、収穫時にはヴィニール管を掘り出すだけですむから、労力が格段に節約できた。近年陽明山地方が山芋の産地になった原因がここにあった。農業技術も革新が行われているのである。因みにカーラーの花は自分で採取して、一本10元。

高雄MRT(捷運)はおまけ
先輩と高速鉄道で高雄まで日帰り、ついでにもっか無料で市民が試乗しているMRTに便乗した。車両が少し変わっている。座席は一律に縦並び、柱は三本の湾曲棒を付属しているので、混んでいる場合はつかまりやすい。一本だけだと他人の手を避けなければならないことが間々あるからいいアイディアである。ヨーロッパのどこかでこのような車両に乗ったような気もする。また座席前のつり革の棒もまっすぐではなく、湾曲しているから座っている人が圧迫感を感じないようだ。ネームプレートをみたらSiemensだった。
先に開通するのは高速鉄道左営を真ん中に、北は橋頭、南は小港(途中高雄駅を通る)まで、市街地を出ると高架になるから建設費がかなり節約できただろう。もう一線は旧高雄港から市街地を通る地下鉄になるようだ。工事の途中で砂地に会ってずいぶん工期が遅れた。
2008/03/31

大山鳴動して

大山鳴動してねずみ一匹という言葉がある。大さわぎした割りに結果が小さい場合によくつかわれるのだが、最近似た経験をした。
3月の定期検査で、GPTが270で異常に高いといわれた。エコー(超音波)検査を受けるようにと指示される。時間は三日後の午後2時30分である。時刻はいいとして、検査前8時間はものをたべてはいけないという。夜食の習慣がないから、前夜から通算すると18時間空腹を抱えなければならないことになる。水は飲んでもいいそうだが、そのことは看護師からは告げられなかった。
約20年前の検診で胆嚢に結石があることが分かっているが、悪さをするのでなければ放っといていいといわれているから、問題があるとすれば胆石だろうと自分でも知っているから、その宗を告げる。この医師は、検査中もケータイを聞いているくらいで、あまり身を入れて検査しているとは思えなかったが、少し腫れていますねというだけで、あとは主治医に聞いて下さいという。
次の週、主治医に診てもらう。少し腫れているが胆管が詰まるほどではないから大丈夫だが、GPT270は高すぎますね、念のため胃腸科へ回しましょうと、すぐ転診の手続きをとってくれた。胃腸科ではほかの項目は正常だが、胆、膵臓、肝臓などのマーカーも検査して見ましょうと、更に10項目の検査を指示された。来週また来院することになる。
過去の検診記録を調べてみると、GPT、GOTともに30をオーバーしたことがない。270というのは10倍値である。調べてみると、中等度の肝臓機能障害で、急性肝炎かヴィルス性肝炎のおそれがある。「肝心」という単語があるくらい肝臓は大事な臓器だから、故障するとうるさいなあと気になりだした。GPTはまさに最初のシグナルなのだ。
折りしも一年間続けたジムがようやく効を発揮したのか、腹囲はあまり減少していないが、体重が二、三キロ下がってきた。知人二人からも少しやせましたねといわれた。一方では尿の色が赤みを帯びている。急激な体重減少はガンに対する警報でもある。やせたのは運動のせいか、病気のせいか分からないだけに、それも気になる。あれやこれや悩んでもしょうがないが、やはり検査の結果を早く知るに越したことはない。
さて、診察の日である。モニターに写し出されたデーターを見て、「あれれっ」と思った。GPT28、GOT25になっているではないか。過去の成績と同じレベルなのである。ほかの機能検査やマーカーも問題はないという。
「今後はどう注意すればいいですか」
と聞くと、時々追跡検査すればいいですよという。別に薬もいらないでしょう。安心が最良の薬ですから・・・と悟ったようなことをいう。
しかし、患者としては、やや不満である。それでは、あのGOT270は何だったのか、一向に説明がないからだ。以下は私の推理である。
詳しいことは省略するが、GPTもGOTも肝臓の細胞が破壊されて遊離した酵素の指標である。100以下であれば正常とされている。だから270はかなり異常だった。それが2週間後28に下がるとは考えられないから、270は小数点の桁違いではなかったかと思われる。27を270と見たのか、写しちがえたかだろう。以前のデーターが25乃至30だったことから、実際には27であった公算が高い。事後ではもはや証明できないだろうが。
ただ、患者としてはエコーから始まって、5回も病院に通うことになった。時間的には1時間もあればよいが、交通や待時間を入れると、結果としてほぼ半日つぶれる。老人は暇をもてあましているように見えても、結構仕事があるから、スケジュールの調整もしなければならない。
まあ、大山鳴動してねずみ一匹でよかったし、病院の裏側を垣間見た経験でもあった。
                          08/04/06 記す

2008年4月1日 星期二

糞尿課一北京篇

糞尿課一北京篇

国の威信を賭けて2008年のオリンピックをかち取った北京は、その準備に向け
て大童である。
その一つが、400年もの歴史ある「胡同」(フートン)の取り壊し。古いものは
すべて醜い、悪いという泥沼にはまりこんでいる。われわれが知っているだけ
でも、明治政府の城の取り壊し、国民党政府の城壁の取り壊し、紅衛兵の寺院
取り壊しなど枚挙に遑がない。日本の城でその災厄を免れたのは10指もなかっ
たらしいが、全国的な空襲で更に焼き払われ、現存する城はわずかに4つだけ
になった。各地で再建、復元しているが、コンクリート建てでは魅力がない。中
国でも主な都市の城壁は大部分取りのぞかれ、丁寧なところでやっと一部を残
す程度、世界遺産に指定しようにももう対象物がない。ヨーロッパで一つの市
全体が遺産に指定されているのに比べると誠に嘆かわしい。
前置きが長くなった。
オリンピックを迎える一環として、共産党が力をいれているのが便所である。
この悪名高きイメージを一掃すべく、北京市は、今度新たに500コも公衆便所
を建設する。実は、過去20年間にも200コばかりつくったそうだが、人ロー
千万を越す大都市にとってアンバランスなことはちょっと計算すれば分る。な
いよりはいいかもしれないが、今度新たに500コつくっても焼け石に水だろう。
さて、北京の公衆便所は、いままで有料だった。3角、つまり0,3元である。3
回行くと約1元になる。1元と笑うなかれ、NT$4元に相当するから朝飯代く
らい出てくる。そこでそれを倹約するため、路上に垂れ流す人間が後を絶たな
い。北京の人間はそれをみな地方からきた流民のせいにする。
有料には有料の利点があった。管理人がいて(といっても地域のボスだろうが)
料金を徴収するかわり、掃除などもやって清潔を保っていた。それが、これか
ら無料にする。入民のために。ところが無料になってあらたな悩みが出てきた。
いままで管理をやっていた連中が怠けだした。金が入らなくなったのだ。部品
はなくなる、掃除はいい加減になるし、水に溶けないかたい紙を使ってパイプ
を詰まらせるなどが普遍化したのだ。
一方、500ヶ所くらいではさすがに足らないと知ったのか、新たに開業するレス
トランやホテルに一般大衆にも開放するように義務づけた。そうしないと営業
許可を出さないという。いかにも「官」が一番偉いという見本らしい。
さて、人口千万、面積は台湾の半分もある北京市でその対策が功を奏するか、
貝を大きくして見ることにしよう。
廖継思09/04