2009年7月21日 星期二

9721 バーゼルから(2)

ZurichからBazelへ帰るべく、自動切符売機で切符を買って出口から切符を取り出そうとしたら、後ろから肩を叩く人がいる。振り返ってみると小柄な日本人らしいおばさんがニコニコして頭を下げている。手に何か書いた紙切れとお札を持っているが、二、三漢字があるほか‘かな’ばかりで読めない。英語で話掛けて見たが頭を振るだけ、(英語が通じないのだ!)紙切れの中にZurich 中央駅があったから切符を買って下さいませんかといっていることが分かった。多分飛行機で着いたばかりだろう。同じ東洋人だから(あるいは日本人と思ったのかも知れない)安心したのかも知れないが、事情は彼女が考えていたほどスムースには進行しなかった。彼女が持っていた紙幣はそれこそ手が切れるような、銀行からおろしたばかりのま新しいものなので自動販売機がうけつけないでもどったのだ。手まねで別の紙幣はと聞いたら財布を見せてみな新品だということを示すだけ。仕方ないから私の古紙幣と交換してやっと切符を手に入れた。行き先はGrindelwald、ユンクフラウへ行く中継駅である。途中までおなじ線路を走るから一緒にのって、万国共通語で聞きだした結果、彼女は{独り}で憧れのユンクフラウ付近をハイキングしてくるのだという。予定は22日間。私のほうがたまげた。最近、女性の一人旅も珍しくないが、キャリオンの鞄一つで22日もハイキングするのはいいとして、英語も通じないでどうするのかなあと心配になった。しかし、彼女は平気である。それに始終ニコニコしている。それを聞くと鞄から紙切れを一杯とりだした。日本字とドイツ語の対訳みたいで用事はこれで全部達成できるのだろう。
どういう人だろうと想像する。子育てがすんで自由になったから、かねてあこがれていたユンクフラウへいって付近をあるきまわって見ようとおもいたったのだろうか。登山用の折りたたみ式の杖までもっているからまあ大丈夫だろう。乗り換え駅で彼女は相変わらずニコニコと手を振って降りていった。思わず心の中で
Have a nice journey “!
と叫んでしまった。

(以上、Basel 在住の孫の嫁の最近の経験談。心配する前にうらやましいと思ったのは私にもそういう素質があるからかも知れない。)

2009年7月20日 星期一

追い出す

京都弁で「いらっしゃい」を「おいでやす」という(そうだ)。東京の人には「おいだす(追い出す)」と聞こえるからはじめての人はちょっと戸惑う。ところが先日、実際に有名食堂から追い出された経験をした。
ある人の招待で小さいが有名な食堂へ行った。長年の習慣で約束の時間5~10分前には着くようにしているが、この日、電車の接続がよすぎて15分前に着いてしまった。おもて通りに面した小部屋で料理人が二人シュウマイを作っており、奥のほうのカウンターに職員が一人いるだけ。
「何か御用ですか」と聞く。
「5時に招待されているのですが」
「いえ、、うちは5時半からです」
「あ、そう。でリンさんがリザーブしていると思いますが」
「ありません」
「じゃ、10人ぐらいだと思うが」
「10人なら1テーブルありますが、李さんです」
「あ、それでしょう。まだ早いようですね」
「5時半開店です」
「じゃぁ、それまで待っていますか」
「お客さんは5時からです。まだ15分あるから、そこら辺で散歩して下さい」
という次第で「まだ準備中ですから暫くお掛けになって下さい」と言うのでもなく、店を追い出された。
実は、招待を通知した係りは5時半になったことを後で知ったのだが、私に通知しなかったのだから非は当方にあるのだがそれでもねーと思わざるをえない。

それにつけて感じるのは、日系デパートのエレベーター嬢、私の知る限り彼女らの所作は30年来全然変わっていない。係りは当然何代目かになると思うが。
ついでに去年の夏、立山へ行った時の事を思い出した。、売店の壁に気に入った暖簾があったので、それを下さいといったら、手元の在庫を探して、
「お客様、申し訳ありませんが、在庫がありませんから他のでいかがですか」という。
「じゃ、そこにあるのを売ってくれませんか」
「いえ、あれは見本でもう2ヵ月そこに曝していますから、色も少しあせているかもかもしれません」
「いや、見たところが色はまだしっかりしているようですね。それをもらいます」
「少々おまち下さい」
と主任となにか話していたが、やがて戻ってきて、
「あのーお客様、見本でしたから5%引きいたします」
と結局消費税の分安くした。たいした額ではないが、客に与える印象は雲泥の差だった。

一般に華人は商売がうまいとよく言われるが、この二つの例からどちらがうまいか、歴然としていると思うのだが・・・。      09/07/02

台北で住所を探す

台北で住所を探す
廖 継思
台北市に長く住んでいる人でも、「どうも住所がみつからない」とこぼすことがある。数年前、私はパリと東京の住所表示について書いたことがある。東京の「町」を中心にした住所と西欧の「道路」を中心とした住所を比較した一文だが、皆さんあまり関心がなかったようだ。
東京に限らず、日本の都市は「町」を中心に表示している。普通、市→(区)→町→丁目→番地で構成されている。近年、アパートやマンションや高層ビルができてからさらに細かく「-1、」とか「-2」などで区切っている。私は東京しか知らないから東京のある友人のアドレスを例に取ると、
たとえば 『栄町一丁目三番地十の3』 は手紙の表記では面倒だから
     〈栄町1の3の10の3〉または<栄町1-3-10-3>
と書いて問題はないが(配達はプロがやっているから)、実際に訪ねていく場合を考えるとそう簡単にはいかない。地図で探して栄町が見つかったとしても3番地がそう簡単に見付からない。地図ではあらゆる番地が載っているわけではないし、3番地のとなりが2番地とか5番地とは限らないからである。幸いにして見付かったが今度は十の意味が分からない。アパートの棟の番号なのか、マンションの階なのか、現地に行ってみないと皆目分からないのだから。だから、かれこれ40年くらいつきあっている友人なのに私はまだ一人では彼の家にたどりつけないでいる。

前置きが長くなったが、アメリカや西欧では道路表示が基本だから、道路の在処(ありか)さえ見付かれば道を歩きながら目的の家に辿りつけるのである。長々と書くよりは実際に台北を例にとってみよう。
台北の住所表示は、 
路(街)→段→巷→弄→階(楼)→番号 
の順になっている。
路と街は基本的に同じだが、道幅によって分けられ、「路」は大きい道路、やや狭い道路は「街」になる。長い路はさらに段で区切ることがある。段の区切りは大抵広い道路に出会ったときに起こるからなれると見当が付く。市によっては段の代わりに一路、二路とするのもある(高雄市など)。アメリカでは普通段で区切らないので番号が4桁にもなるのも珍しくない。一度、5700台の番号に出合ったことがあったが、歩道の角に大きな柱に大きな字で表示していた。車社会だから遠くから、走っていても見付かるようにしているのだろう。
「巷」と「弄」は共に路地だが巷は路または街から分かれた路地、弄は巷からさらに分かれた路地である。路や街に面したところでは当然巷や弄がないことになるし、短い路や街では段は不要である。そして、いよいよ番号に辿りついた。そこが多層建築ならば表示は更に階(またはF,正式には楼)を表示することもある。
次に重要なのは路(または街)が南北や東西に分かれる点である。その分岐店は中山路(南北)と忠孝(東西)である。地図でこの二つの道路に線を引くと台北が東、西、南、北、に四分されることに気が付くだろう。
たとえば、東西方向に走る南京路は中山北路で南京東路と南京西路に別れる。同様に南北を貫く中山路は忠孝路で中山南路と中山北路にわかれる。
最後に番号にも規則がある。あらゆる番号は上記の分岐線から始まる。つまり南京西路も南京東路も、中山路から数えはじめ、起点に立って東に向け左方が奇数1,3,5,7・・・、右方が偶数2,4,6、8・・になる(西に向けば左が偶数右が奇数になる)。南北方向の道路ならば、北に向かって左側が偶数、右側が奇数になる。南に向けば左が奇数、右が偶数になる。建物の大きさが違うので、偶数番号の向かいが近い奇数とは限らない。途中で路地(巷)に出会えばその巷にもつづき番号がつく。たとえば15号の次の巷は17巷で、その次の家(またはビル)の番号は19号となる。弄の場合も同じ。この方法の利点はあと何軒で目的の家に着くかの予想ができることである。最後に実例である住所を探して見よう。
 <台北市延平北路二段144巷5号>へ行こうと思う。
○ 北路というから北半分にあることが分かる。
○ 延平北路は重慶北路という大きな通りと平行する南北の通り。
○ 二段ははじめに近いあたりだろう。多分南京路から二段になるだろう。
○ 144巷だから進行方向の左側だろう。
○ 弄はないから目的の家はこの巷に面した家にちがいない、そして5号は、表通りから入って3軒目のはずだ。
こうして簡単に目的の家が見付かった。
余談になるが、地図をながめているといろいろ面白いことが見付かる。
第一にあらゆる都市に「中正路」があるのに台北市には「中正路」がない(士林にあるのはあとで台北市に編入されたからである。いや、台北市にもあったのである。何故なくなったかというと、もともとは現忠孝路を経て現八徳路と続く台北市の目抜き通りが中正路だったが、この路がまっすぐになりずっと東に伸びると途中で「段」を設けて中正路を切らなければならない。それではあまりに「恐れ多い」からというわけで、忠孝路に改め別に八徳路を設けた。おべっか文化は昔から健在だった。ちなみに、おべっかは中国語では「拍馬尻」という。現状をみているとまさにずばりではないか。
第二に、大きな道路が続いているのに名称がちがうところがある、新生南路と松江路、中山南路と羅斯福路である。これは後で開通したか直線にしたためだった。

さあ、あすからあなたも道を探すベテランになる。頑張って!

もう少し余談を進める。
「町」表示の不便さは外国人ばかりでなく東京人でも痛感している。だからカーナビの普及率はおそらく世界でもトップクラスだろう。ある年、東京で友人を訪ねての帰り、電車の方が便利だと言ったのに、友人が親切に送ってくれるというからその精密なカーナビ(電話番号だけで連れて行ってくれた)で泊まっている家の近くまで行ったが、夜だから普段見慣れている家ではない。道路も新開地だからどの家も同じように見える。幸い、電話で連絡してそこに住んでいた学生が、思いがけない方向から現れて案内してくれてやっと家に入れた。カーナビとて万能ではないことを知った。困ることに日本の家々には表札というものがあって、ご丁寧に家中の人の名前が全部書いてある。この家にはおばあさんと主人夫婦と子供が3人いることが分かってしまうから、私が悪人ならば、いろいろ悪事に利用できそうだなあと感じてしまう。台北には表札というものを見かけない。アメリカでもヨーロッパでも同様なのだ。個人情報が取りざたされる現在、そのような表札をみる度に余計な心配までしてしまう。もっと困るのは下宿(または寄宿)している場合、住所にだれそれ方と書かないと配達されないことがあるのである。表札に載っていない宛名だからだそうだ。今更道路表示にあらためることも出来ないだろうから、日本人は永遠にこの不便と付き合って行かなければならないようだ。    ‘09/06/25

2009年7月11日 星期六

漢 字 は 語 る

漢字の元祖とされる甲骨文字の起源は7~8000年前まで遡るというが、少なくともここ1000年間漢字はほとんど変化がなかった。それが、二次大戦後ほぼ時を同じくして、漢字の二大使用国が漢字改革を行った。かくして、現在世界で通用している漢字は台湾の「繁字体」、中国の「簡字体」及び日本の「日本字体」の三種類がある。中国と日本はそれぞれの字体を知っていれば差し支えないが、台湾の日本語族は三種類ともできないと不便になった。難しいことは抜きにして、読むだけでも一大事なのである。
ところで、この時の文字改革だが、どうも不徹底であるか、行き過ぎがあったり、従来の系列から外れて可笑しくなっているのが間々ある。
しかし、改革をやった先生方はちゃんと理由があったにちがいないが、よく見ると、その後の世相から先生方に先見の明があったと思われるのがあって面白くなった。
その1.智慧→知恵    新しい教育を受けた世代は知識は豊かになったかも知れないが考えることがなくなった、つまり智慧がなくなったとしか思えない。結果、言わないでもいいことを言ったり、口をすべらせたりして風格を失っている。
たとえば「大智は大愚に似たり」ということわざは「大知は・・・」になって元来の意味を失うだろう。
その2.簡体字では「愛」から「心」をとってしまったので、「欲する」意味ばかりが強調されて世の中がぎすぎすして、人間が心を失っている。それが伝染して「誰でもいいから殺したくなった」と兵器でいったり、幼児を殺したりする世相が出現している。
その3.「世論」を「よろん」と読ませる類。「世論」ではどうしてもばらばらで、まとまりがない井戸端会議のイメージになる。昔からある世話、世間、世界を知っている人なら「せろん」と読みたくなるではないか。事実、閩南ごならば「世間」は「セーカン」、「世界」は「セーカイ」なのでわたしは今でもつい「世論」を「セロン」と読んでしまう。
きりがないからこのへんで止めるが、最後に文字遊びを一つ。

明の末代皇帝が、ある日お忍びで町へ出た。文字判断をしている屋台があったので、近づいてやおら筆をとると、「友」と書いた。
易者;「ふーむ、反になりそうですなあ」。
皇帝;「いや、これじゃない「有」だ」。
易者;「大明が半分いかれていますなあ」
皇帝;いやそのユウじゃない、「酋」のユーだ。
易者;「ますますいけません。至「尊」(皇帝の意)の足がありません」
こじつけだが、漢字とはこんな遊戯もできるから「官」が「民」をいじめるカッコウの材料になったらしい。

私 の 1949

1949年は中華民国が消滅し、中華人民共和国が誕生した年である。その経過と真相は、60年経った今でもはっきりしない部分がかなりある。
先日意外にも「私の1949」と題するドキュメンタリーが東森TV から放映された。出演者は何人もいなかったが、われわれが見たこともない映像がかなり入っている。また多分今まで発表できなかったことも少し報道されている。
500万の大軍を抱えていた国民党軍がそれこそ将棋倒しに敗退したのは、共産軍が来る前に司令官が部下を率いて集団投降した話は昔から数限りなく聞いているが、上海を攻撃に来た共産軍はたったの1400人程度だったと聞くと、全く信じられない。人心の向背がよく分かるし、内戦の特徴でもある。敵に利用されるのをさける為逃げる部隊はまず大きな穴を掘り軍馬を射殺して埋めた。埠頭に殺到する難民の群れ、ロープをよじ登る難民、トランクを海に投げ捨てる兵士(逃避行だから金の延べ棒が入っているかも知れないのに)、ロープに群がる難民に向かって機銃掃射する兵士、ロープから海へ落ちる民衆、どの場面をとっても地獄の再現に近い。12年前、日中戦争で南京が陥落した時?十万人日本軍に虐殺されたというが、案外このような場面が繰り広げられていたかも知れない。上海の埠頭で演じられた射殺、圧死、の数字は当然ながら記録にない。
共産軍が南京に入城したのは4月23日、上海占領は5月27日だったから上海での混乱は少なくとも1ヵ月は続いたはずだが、国民党軍や難民は一度に上海から逃げたわけでもない。最初に台湾に逃げてきたのは空軍だった。それも軍人だけでなく、家族も軍用機に乗せて真っ先に飛んできたのである。中にはダンサーもたくさんいた。その頃台湾各地に「新生社」という空軍のクラブができダンスを始めた。その後も四川や広東などからぞくぞく台湾へ逃げてきた。台中一中の後輩で軍官学校に入っていた学生は成都から広東、海南島をへて漸く台湾にたどりついた。軍や政府機関は学校を占領して住みついたが、民衆は空地があれば掘っ立て小屋を建てて雨露をしのいだ。空地という空地がすべて不法占拠され、学校までが一時休校になるなど、折角戦後の経済崩壊一歩手前で再建した経済がふたたび「反攻大陸」の名のもとに搾取の対象になった。私は当時台中の学校で教員をしていたが、それら敗残兵を収容するために教室を明け渡し、学校は夏休みを前倒しして休校した。椅子や机が燃料にならなかっただけ幸いだったというべきかも知れない。台湾の人民はいつ共産軍が海を渡って攻めてくるかとおびえる毎日だった。広々した旧第三大隊の練兵場は格好の難民キャンプになった(現練武路)。また台中市を貫通する二つの川、柳川と緑川の両岸は広い芝生道になっていたが忽ち掘立て小屋で埋め尽くされた。足らなくなると川側に向けてつっかい棒で伸ばしていった。難民キャンプ光景は1980年代まで続く。難民総数は200万人を越えたというが正確な数字は未だに発表されていない。
国民党の窮状を救ったのは、あくる年(1950)の6月25日に勃発した朝鮮戦争だった。アメリカは蒋介石軍の投入を断ったが、台湾海峡に第7艦隊を派遣して台湾を防衛した。
人民が自力で解決しなければならなかった難民キャンプが片付くのは20世紀も終わろうとしていたころだった。陳水扁が市長になったとき、難民キャンプになっていた日本人墓地を第14,15公園に更新したのだ。がそこまでの課程で莫大な税金が注ぎこまれている。たとえば、私が現在の住所に移ってきた1970年代、忠孝東路三段の建国路以東は車がやっと通れる道が一本残されている程度で、まわりはすべて不法建築だったし、金山路も完全に通じていなかった。現中央図書館は総統府のまん前にありながら難民キャンプと化して何十年、197? 年にやっと回収した。そのキャンプが燃えた夜、たまたま私はそばを通ったが、景気よく長い間燃えていた。噂によると蒋経国が火を点けさせたのだという。
ドキュメントの出演者の一人は、町へ買い物に行ったきり軍隊に拉致されて一緒に台湾へ渡ってきた。彼は台湾で退役、その子孫が大陸の故郷へ帰ったのは1988年、親戚訪問のための大陸行きが解禁した年だった。
もっとドラマチックなストーリーもある。大連で結婚式の当日に国民党軍に拉致された某氏は台湾で退役結婚し、その相手の女性も結婚して偶然やはり台湾にわたったが最近それぞれ配偶者をなくしてまた偶然知り合い正式に結婚式をあげたという。50年の歳月が流れていた。それでもかれは幸運だったのかもしれない。共産軍の捕虜にならずにすんだし、なによりも朝鮮戦争で人民志願軍にならずに生き延びたのだから。

2009年7月5日 星期日

「司馬遼太郎の坂の上の雲を読む」をよむ

NHKで大河ドラマに「坂の上の雲」を放映するというので、入院の機会に読み直した。三度目である。しかし最近それは大河ドラマではなくてスペシアルドラマであることがわかった。今年11月20日から年末にかけて計5回、更に2010年と2011年にまたそれぞれ4回、三年がかりで(合計13回)放映するという。
こんな題材で司馬遼太郎さんの伝えようとしていることを表現できるかと疑問に思っていた矢先、四月はじめの「アジアの一等国」ドラマでとんでもない偏向報道を見せつけられて、ますますその感を深くした。
そしてタイミングよく「坂の上の雲を読む」という本が出版された。’09年4月の刊行である。著者は谷沢永一、関西大學名誉教授、「宮本武蔵の読み方」などの本がある。
この本で教えられたことがたくさんある。僕たち凡人は小説の筋を追うのに一生懸命で往々著者の意図するところを見逃してしまう。それを谷沢氏はハイライトを再現して見せてくれる。おかげで「坂の上の雲」に対する認識が深まった。同時に大河ドラマでは司馬さんの意図するところは十分に表現できないだろうと感じた。この小説には明治の社会、国家の運営、民間の思想(とくにメディアのあり方)、軍部に対する批判が随所に出てくる。それも悪意の中傷ではなく過去の欠陥から将来の反省への手がかりを伝えたかった部分が多々あるが、NHKの偏向報道性格からすればどうもまた日本が侵略をした帝国主義者だったと自虐的に表現されそうである。、そもそも、司馬さん自身が、この小説は映画にしないでくれと望んでいたというから、このことを予期してそういう意向を伝えたのかも知れない。
「坂の上の雲」は大部分が日露戦争をテーマにしているが背景は日本近代史そのものである。長くなるので一々引用しないが、おもな項目を次に並べる。興味ある人は大河スペシヤルが放映される前にこの本を読むことをお勧めする。もっと興味がある人は「坂の上の雲」の原作を合わせ読むともっとよいだろう。

・ 日露戦争の原因は満州と朝鮮である
・ 日本は日露戦争ではじめて「近代」の恐ろしさに接した
・ 日露戦争は日本が勝ったのではなくロシアが負けてくれた
・ 日露戦争に勝ったことで日本軍部がつけあがった
・ 日露戦争に勝ったことで思い上がった日本軍部と国民
・ 情報を集めるだけで活用しなかった日本軍部の体質
・ 陸軍大學のエリートが国を誤った官僚軍人の温床
・ 陸大の成績の順位が昇進の標準になった(後に東大法学部の順位が官僚昇進の基準になる)

など。
私なりの乏しい知識では未だに分からないことが一つある。日本軍が開発した三八式小銃は精度がよいという評判だったが日露戦争には間に遭わず、日露戦争はほとんど三○式小銃で戦った。精度がよかったのは、一本一本が職人の名人芸にたよっていたからで、狙撃用には実際にテストして性能のよいものを選んだという。問題はその後30年間改良を加えるでもなく後の太平洋戦争でもそれを標準装備として使っていた点である。そして軍部は、特に陸軍は精神で勝てると思い、実際にもその方向に進んでいく。

冒頭に書いたように、私が「坂の上の雲」を読むのはこれで三度目である。こんなに「真面目に」読んだ小説は他にない。最初は日本海海戦の経過を追うために読み、二度目でようやく旅順戦と奉天戦の実態を知り、三度目で司馬さんが伝えたかった真意が漸く少し分かった。だから谷沢さんの言う「日本が勝ったのではなくロシアが負けてくれたのだ」がよく分かった。われわれも含めて長い間日本軍部はこれを大勝利として国民に教え、結果として国を誤ったとしか言いようがない。本当に勝ったのは日本海海戦だけだったのに。
ここまで書いて、実際には相手が不手際で負けてくれたのに、勝ったつもりで有頂天になった例が身近に起こったことを思いおこした。民進党の選挙である。詳しいことは省略するが。

全編を通じて東郷さんが言った名言が心に残っている。 
 <海戦では味方に落ちた砲弾しか分からないから当方の損害ばかりが強調される心理になる。実は敵にも損害を与えているはずなのにそれは見えない。その心理状態を克服した方が勝者になるのだ>
戦争ばかりでなく、あらゆる場面に通じる真理だと思う。
                           “09/06/12

いま、ローマ人の物語が面白い

ローマは永年にわたってヨーロッパとアジアの一部を支配した大国で、その影響は今日まで至るところに残っている。身近なところではアルファベットや英語やフランス語などの単語とか学名である。。
ローマ帝国の盛衰については、ギボンの「ローマ帝國衰亡史」という大作があり、知識人必読の本の一つに数えられているが、凡人にはとてもそれを読破する基礎と気力がない。
幸い塩野七生(しおの・ななみ)が十五年かけて物語風に書いた全15巻の「ローマ人の物語」が文庫版になった(2003年、6月)ので早速買い求めて読んだ。前に椎間板ヘルニアの手術をした機会に第15冊まで読んだあと、なぜか毎年出版される本だけはそろえたが、読む方は停頓してしまった。今度の入院でまたとりあげて、気が付いてみたら10冊もよんでいた。いま、帝政になって約二世紀、いわゆる賢帝の時代が終わろうとしているところである(第26冊)。
「ローマ人の物語」は塩野七生さんが言っているように学術書ではないが、ローマの生い立ちと変遷は忠実に辿っている。その長い歴史の中心人物はなんと言っても執政者(後半では皇帝)で、時代を作っていった立役者であった。しかし、その背景とか施政の考え方が随所に現れるのが面白いし、定説を覆すような解釈も入るのがいい。たとえば悪い皇帝の代表と思われていたネロは、たしかに妻や義母を殺した点では悪党だが、国家の運営ではちゃんと皇帝の責務である「安全の保証と食物の確保」は実行した。
ローマは今から約2800年前、BC753年に建国された。中国では周の幽王の時代、日本はまだ縄文時代の真っ只中にいた。ローマ人の祖先はトロイ戦争で生き残った一人のトロイの勇士ということになっている。どの国でも建国には必ず神話がつきまとう。それが往々何百年もブランクが出てその埋め合わせに苦労する(日本も神武天皇は何百歳も生きないと辻褄が合わなかった)。ローマも例外ではなく、建国の時期とトロイ戦争の間には400年の隔たりがあるがそこは矢張りうまくつくろったようだ。
分かっているところでは、初代の王ロムロスは羊飼いの集団のボスだったらしい。この集団は、技術的にすぐれて(鉄器を使っていた)エトルリア人(北方)や航海に長けたギリシャ人(南方)が見向きもしなかったローマの地に移り住んだ。ローマという地名や民族名、国名は第一代の王・ロムロスに起因する。初期のローマ人は男が多かったのか、時々隣のエトルリアに攻め込んでは女を略奪した(拉致?)。このため何度も戦争になったが、四度目の戦争では略奪された女が中に入って和解する。夫(ローマ人)と親・兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないという理由で。両国は和解し平等な合併国家を形成する。
(注)今日、西洋の結婚式で花婿が花嫁を抱き上げて敷居をまたぐ習慣は当時の拉致の習慣の名残だという。台湾でも、花嫁は結婚式の翌日里帰りするが、そのとき実家の兄弟や友人が婚家へ花嫁を迎えに行くのは拉致された花嫁を奪い返す意味があるといわれている。して見ると古代では略奪婚が一般的だったのかもしれない。
初期のローマ王はいずれも優れた人だったようで、ローマ一千数百年の基礎はほとんどこの最初の五百年に形成されている。たとえば政治と宗教の分離、元老院と市民集会の設置、法の制定など、政治形態がその後王政から共和政になり更に帝政に変わってもこの原則は守られた。一言でいって、ローマの王や執政官、皇帝の最大にして基本的な責務は、国家の安全を守り人民の食を確保することにあった。なぜ、
  知力ではギリシャ人に劣り
  体力ではケルト人に劣り
技術力ではエトルリア人に劣り
経済力ではカルタゴ人に劣っていた
ローマ人だけが広大な地域を領有して大帝国を築き、長期にわたってそれを維持できたか?それを書きたかったと塩野七生さんは言う。
  
文庫版は一冊約200ページ、ポケットに入れても、ハンドバッグに入れてもじゃまにならない程度のサイズ、物語方式だから読みやすいが、登場人物が皆ラテン読みなので慣れない点もある。たとえばシーザーはカエサルになっている。アルファベットではCaesar。また人名も長ッたらしいがこれも挑戦の一つ。読み進む他ない。

政治と宗教の分離だが、ローマが強大を維持できた要素の一つがローマ人の多神教だったのではないかと私はひそかに思っている。なにしろ何十万ともいわれる神々がいたから、他の宗教を敵視したり、他の神を信じる人を自分の宗教に改宗させようとしない、抱擁力をもっていた。こんな神様もいたという一つだけエピソードがある。夫婦の神様もいた。
夫婦喧嘩になると相手にしゃべる機会を与えないように二人が競って喋り捲る現象は世界中同じらしい。これじゃどちらに理があるのか分からない。しゃべり疲れると夫婦して神様のところへいく。神様の前では一度にしゃべるのは一人という原則がある。一方がしゃべっている間他方は聞いていなければならない。つまり冷静にならざるをえない。すると「ふーむ、あいつの言うことも一理あるなあ」と思うかも知れない。かくして帰るときは腕を組んで仲良く帰ることになる。審判員は「かみさま」なのである。
今読んでいるのはいわゆる賢帝時代が終わろうとしているAC130年代前後で、キリスト教がまばらにローマ人のなかに侵透し始めた時期であるが、宗教的には一神教であるユダヤ人ともすでに何百年にもわたって共存してきた。何度かユダヤ戦役があったがみなユダヤ側がしかけた戦争だった。
(今日に至ってもユダヤ教問題は解決されていない)
だからまだローマの衰亡には距離があるが、衰亡のはじめは一神教のキリスト教を公認してからではなかったかと思うことがある。コンスタンティヌス帝はキリスト教を最初に公認したが、帝は他教を禁ずることはしなかった。AC392年にテオドシウス帝が異教排除をするまでの80年間ギリシャ、ローマ、シリア、エジプト、キリスト教、ユダヤ教各宗教は共存していたのである。この間ローマ人民は平和と繁栄を享受し、歴史家によれば、地球でも稀なよき時代であったという。
よき時代とは、皇帝は国(人民)の安全と食べ物を保証し、人民はローマ市民であると否とにかかわらず、安全且自由に国内を旅行出来、皮膚の色や身分で差別されることなくローマ人が造成した街道、橋、水道などのインフラストラクチャー(インフラ)を利用できた。全版図で8万キロメートルに及ぶ公道、無数の橋、都市に流れ込む水道其の他を今日でもわれわれはみることができる。それらはほとんどがローマを守る軍団兵によって造成されたものなのである。破壊された多くはキリスト教徒の偏見(異教徒の偶像崇拝)とメンテナンスの不備が原因であった。
そういった記述を呼んでいると、今日のイタリア人が本当にローマ人の後裔なのか、という感慨にしばしばとらわれた。その間の詳細をこの短文でつづることはとてもできないから、興味ある人は原作を読むことをおすすめする。
今よんでいうのはAC4世紀のころ、いよいよローマが衰亡への道を転がり始める時代にかかったところ。未出版の分を含めてあと何冊くらいあるか、いつ完了するか分からないが。