2009年9月16日 星期三

拉 致
廖 継思

拉致――辞書を引くと「無理やりつれていくこと」とある。略奪も似たようなものだが、この場合土地、物品、食料をも含むので範囲が少し違うらしい。拉致は人間の場合にだけに使われるようだ。大げさにいえば、拉致は人類とともに始まった。そして腕力の差からいって男が女を拉致するのが普通だった、と思う。

ローマが現在のローマの地に建国したのは紀元前715年とされているが、彼らが居を定めた場所は、起伏する七つの丘にかこまれた、ほとんど耕作できる平地もないところであった。北に前から定着していたエトルリア人(サビーニ族)が、南に地中海を走り回っているギリシャ人の集団がいたので、その場所に落ち着いたらしい。集団は牧畜(羊飼い)を主にして川辺にいたから水利の便はあったが人口の急速な増加につれて領地を広げる必要があった。初代の王ロムロス(ローマの語源は彼による)は度々部下をつれて隣のエトルリア人地区に攻め込む。目的は女性の拉致だった。ローマ人は男が多かったのか、拉致した女性は妻にした。当然、拉致されたほうは奪い返そうとする。何度も戦闘があった後、ついに拉致された女たちが戦場へ割り込んで、戦いはやめなさいという。夫(ローマ人)と親、兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないからだという。そこでローマとエトルリアは和解し、ローマの版図がはじめてひろがった。
拉致が結婚の一つの形式だったのはローマばかりではない。多くの民族にのこる結婚風習からそのことがうかがえる。台灣でもその残滓と思われる結婚風習が数多く残っている。花嫁を迎えに行く「子婿伴」や里帰りの「舅仔伴」などがそれだが詳しいことは別の機会に譲る。

ローマの建国からほぼ2800年たった。
人類は文明になったというが、北朝鮮では最近まで公然と拉致が行われていた。ある日、新潟県の海岸で散歩していた若者が(男女を問わず)正体不明の船に乗せられていったり、ヨーロッパで日本人の若い女性が突如姿を消したり(横田めぐみは当時13歳だった)、行き先はすべて北朝鮮だった。総数は13人とも17人ともいい、正確な数字はわからない(日本と北朝鮮の発表した数字がくいちがっているため)。結婚させられたのもいるがこのような拉致の真の目的はいまだに謎につつまれている。
庶民ばかりでなく、大物も拉致されることがある。金大中が野にいたころ、東京のホテルで韓国のKGBに拉致された事件があった。他国の首都で特務機関が行ったことで大事件といえるが、韓国政府が謝罪したかどうか分からない。
拉致の先輩は、実は中国である。政敵の拉致は日常茶飯事のようにおこなわれていたが、戦乱の時代には若い男を拉致して兵隊にすることも普遍的に行われていた。日本陸軍は兵員が足りなくなるか、あらたに師団を編成する必要が生じると1銭5厘の「赤紙」(召集令状)を発行すれば国家機能が働いて兵が集まるが、中国では隊長が請負で集める。このとき定員いっぱい集める隊長はいない。もう長く軍隊で生活してあらゆる細部に通じた老兵や志願兵で員数が足らないと街へ出て拉致する。それで八割かた集まったところで募兵完成の報告をする。点呼があるから定員に足らないぶんは点呼の日だけの「傭兵」に日当を払って雇う。
私が子供だった頃、となりの集落に「老啓叔公」という話好きな大叔父さんがいた。酒が好きで一杯機嫌になるとよく昔話をしてくれた。あるとき、なにかの拍子で「わしはな、シナ兵になったことがあるんだよ。清朝の兵隊だがな」といったことがある。よく聞いてみると、県庁が彰化にあった頃、守備兵の身代わりで点呼査察に参加したのだという。
「お前の名前は林xxだ。(よく覚えておけ)。名前を呼ばれたら「有(ユー)」と手をあげて答えるんだぞ。わかったか」
と何度も練習して、制服を着て広場に整列し将校がくるのを待った。係官は名簿片手に一々名前を読み上げ、手があがるとちょっと観察して次に移る。馬鹿面でもかまわないが、あまり年をとっているものはだめだ。
「200人くらいいたから結構時間がかかったよ。全部が傭兵ではなかったが。夜になってからわれわれ臨時兵は日当をもらって帰った。そうだなあ、銀貨一つくれたかなあ。割りのいい仕事だったよ。あとの二割の人の給料はどうするかって?もちろん隊長のポケットに入るさ。ほかの給与も含めてな。ただね、一人占めはいかんよ。県長はもちろん、台南府にも適当な人を配して査察の時期を知らせてもらえるようにしないとばれるからね。結構出費もあったんだろうよ。そんな金を節約したために通知がおくれて傭兵の手当てが間に合わず、汚職罪で銃殺されたのがいたそうだよ。
拉致か。平時はそんなことしないよ。あれは軍が移動するときにするもんだ。拉致してそのまま行軍してしまうからね。拉致されたとわかったところで相手は武器を持った集団だ。手が出ないよ。泣き寝入りするだけだ」

国民党時代にも拉致は半ば公然とおこなわれていた。公然の秘密ではあっても、国軍の栄誉に係わるのでいう人もなかったが、なぜか中華人民共和国建国六〇周年になる今年、相次いでいくつかの拉致の例がテレビや新聞で暴露された。
六月に放映された「台灣演義」で二例報道されている。一例は大連で結婚式に赴くため家を出た若者が、街で兵隊狩りに会い、そのまま軍に編入された件である。彼が属した部隊は東北地方で連戦連敗の末台灣に撤退してきた。後に国軍更新計画で退役し、結婚して子供ももうけたが、ある日台北の街角で大連で結婚するはずだった彼女に会った。奇跡的に彼女も結婚して台灣に逃れてきていたのである。再会した二人はともに配偶者を亡くしていたので改めて結婚し、ニュースに大きくとりあげられた。この例はきわめて稀な幸運な例だが、ある新聞が伝えるところによると、母に「醤油を買ってきて」といわれて街へ出たところで拉致に会い、部隊とともに台灣に逃れ、一九八九年中国への帰省訪問が許されるまで母親との連絡も覚束なかった彼が、帰省するについて真っ先に買ったのは醤油一瓶だった。母の言いつけを果たすために。美談である前になんと悲しい国かと思う。
中国では兵隊の員数をあわせるために拉致が普遍的に時代を超えて行われていたことが分かる。こんな例がどれだけ埋もれているだろうか。掘り起こせば何万とあるだろう。
中国のエリートによる座談会の記録を読んだことがあった。毒ギョーザ事件について異口同音に、「日本人がどうしてそんなに騒ぐのか分からない。だれも死んでいないのに」と言っていたのに唖然とした。彼らにとって日本人がなぜ拉致問題をとりあげて騒ぐのか、永遠に分からないだろう。
史上最大規模の拉致は、ポルトガルによるアフリカ人の拉致だったのではないかと思う。カリブ海の島々のサトウキビやブラジルの広大な土地に栽培していた綿花の収穫は一斉に行う必要があり、大量の労働力が要求された。それをポルトガルは現地で拉致したアフリカ人に求め、かの悪名高き奴隷船に積んで供給したのである。拉致に当たったのはポルトガル人だけではなかったが、運送したのは殆どポルトガル船だった。その数900万人とも1500万人ともいう。酷い条件の奴隷船で運んだため、途中で死ぬものも多かったから記録が不確かだったのだろう。北朝鮮あたりでは「たかが十人や二〇人の拉致でなにを騒いでいるか」と考えているかもしれない。
一方、日本でも秀吉の朝鮮出兵の際、引き上げるときに朝鮮の陶工を拉致した前歴がある。その子孫がいま一四代か十五代になっているらしい。このときは朝鮮の優れた陶磁器技術がほしくて連れ帰ったのだから、納得づくでつれてきたのもいただろう。いずれにしてもすでに日本の社会にとけこんでいる。

人類の歴史の中では、戦争で敗者になると勝者が本国に拉致して奴隷にすることが広くおこなわれきた。近代になって捕虜の取り扱いに国際的なルールが決められたが、労働はさせていいことになった。しかし、ソ連は戦争が終わった時点で捕虜をシベリアに連行し、戦後もなお何年間も労働させた。「抑留」と造語したが、実質は拉致なのはまちがいない。これに対してソ連が謝罪したのをきいたことがない。

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