2009年8月30日 星期日

緑の海平線を観て――少年工物語補遺

緑の海平線を観て――少年工物語補遺
                            廖 継 思

2007年11月26日、公共テレビで「緑の海平線」(少年工物語)が放映された。郭亮吟監督によるドキュメンタリーである。郭監督は、家族がゼロ戦となんらかの関係があったので、是非記録として残したかった一念からこの映画の製作を思い立ったという。私の弟がその少年工の一員だったので、見てもらって感想を聞いた。
一般に海軍工員と呼ばれていた高座の少年工は総数8419人もいた。第一次は昭和18年4月に高座海軍工廠に着任したが、選考は前の年から行われていた。海軍の戦闘が海戦から空戦に移って行く中で、飛行機の増産が最優先となる情勢を見て取った結果である。しかし、内地では兵員の動員で労働要員が不足していたので、台湾の若い少年に目が向けられた。
募集は昭和17年、当時国民学校の高等科1,2年生だった男子生徒(15歳前後)を対象に、学校の先生を通じて行なわれた。昭和17年といえば、ミッドウエー海戦とガダルカナルへの米軍上陸で戦局は不利に傾いていたが、一般国民には知らされず、まだ勝っていると思われていた時期である。熱心な教師や学校では半ば強制的に勧めた形跡もある。
働きながら技術を習得するとともに、中学程度の学業も教えるから、何年かあとには中学卒業の資格が得られるというのが、募集の要項であり、当然愛国心に訴えることも忘れなかった。志願が原則だから保護者の判が必要だった。親が反対だったので、判を盗んで押した人もいたといわれている。
選考は学科試験から始まった。
学科試験をパスしたものだけが第2次試験に参加できる。主として口頭試問と身体検査だが、ここで落とされて泣いた人も少なくなかった。志願者約2万人から採用したのが上記の数字であった。
上記のほかに、旧制中学校や実業学校を卒業した人も募集した。少年工を統率するためで、中隊長と呼ばれていた。約200人採用された。20歳前後で、私の中学のクラスメートも一人採用されている。弟は第7期で、その中隊長は台北二中出身の人であった。広田と呼んでいたから多分黄姓だったのだろう。
少年工はまず高雄の岡山海軍工廠、俗称「空C廠」に集合の上、何回かに分かれて南方からの輸送船とともに日本に赴いた。ドキュメンタリーでは、高座工廠を「空C廠」といっているが、それは間違いで、「空C廠」は岡山海軍工廠のことであり、南方からの飛行機の整備を主な業務としていた。(はじめは一般から自動車整備の経験があるものを募集していたが、あとで少年工も一部投入された。空C廠は後にフィリッピンに進出して現地で整備をするようになったが、米軍の上陸後山の中に逃れ、何ヵ月かの後投降して一命を取りとめた村人がいた。少年工でフィリッピンで亡くなった人がいたのはこの事情による。)
第一梯団の少年工約800人は、昭和18年4月30日にサントス丸で高雄を出発して、5月7日に高座に着いている。昭和18年といえば、その3月19日に神戸とキールンを結ぶ内台航路の高千穂丸がキールン沖で撃沈されたばかりだったから、海軍でもこれら工員の輸送にはずいぶん気を使ったらしい。第一船は800人をのせて、数隻の南方からの軍用船と船団を組み、駆逐艦に囲まれて航海した。この方式は一年後弟が乗った第7期の時も同様だったという。第7期は昭和19年3月に出発したから、情勢は一層厳しくなっており、護衛駆逐艦の数も多く、乗船者も増えたのか、野菜などは甲板に露天積みして網かけしていただけだったという。
実は、私は弟が志願したことを知らなかった。高座からのはがきではじめて知ったが、さて高座というのはどこにあるか分からない。ようやく、大和の近くにあることが分かって、千葉から横浜まで行き、それから相模鉄道に乗り、大和で降りて高座に着いたのはもう昼を過ぎていた。実際は、大和で江ノ島線に乗り換えて鶴間で降りる方が近かったが、知らない土地で大廻りしたことになる。弟たちはまだ基礎訓練中で、合図の笛に合わせて金槌を振り上げては鏨(たがね)を叩く画面が映画で何度も放映されている。一棟200人の宿舎が40棟建設されて、彼らはそこで生活し、工場まで2キロの道を、隊列を組み、軍歌を歌いながら工場まで歩いて通勤した。私が高座へ行ったのはこの時だけで、その後一度だけ派遣先の中島飛行機製作所・太田工場まで行っている。私も工場に就職したばかりで、中々休みが取れなかったのである。宿舎はノミだらけで、その飛び上がる音が聞こえるくらい、文字通り跳梁していた。
高座工廠が正式に開廠したのは昭和19年4月だったから、第一、二期生(第一期せいは内地で募集した日本の少年だったから、台湾から行ったのは二期生が最初だった)あたりは、工員養成訓練のかたわら、約束通り学科の授業も受けたが、それ以後になると基本訓練のあとすぐ各地の工場へ出向している。弟は4月に着いて、6月か7月にはもう太田の中島製作所へ派遣されていた。私が尋ねて行った時、広田中隊長の計らいで、腕章をつけて工場のゼロ戦製作現場を見学している。はじめて身近に見るゼロ戦は意外に小さく、これでよくも台南からフィリッピンまで往復できたと思うくらいだった。機体と翼をリベットでつないでいく動作はもう一人前の工員に見えたが、実は一般工の助手として当て板などを支えていたに過ぎない。別棟で夜間戦闘機・銀河と月光、高速、高高度戦闘機・雷電の試作が進行中だった。まだB29は来襲していなかったが、ゼロ戦では高度や速度で歯が立たないことが分かっていたので、次期戦闘機として期待がかけられていたのである。これらの機種は、後に高座工廠に移って製作されたが、そのころには空襲が激しくなっており、資材も不足勝ちで、それでも終戦までに128機生産されたが、実戦に参加できたのはそんなに多くなかったらしい。期待ほどの戦果も上がらなかった。
私はまだ卒業しない前の六月には就職先の会社に入り、巣鴨の社員寮にいたが、過労で9月に入院したとき、弟は独りで寮まで尋ねてきて、看病のためと称して、1週間近く泊まっていった。寮長広田君の特別な計らいだった。退院の日、弟と二人で飯田橋の病院から銀座へ出ようとして、都電に乗っていたら、警視庁あたりで空襲警報が発令された。電車が停まり、乗客はみな下ろされたが、防空壕に入る人はなく、まもなく、澄み渡った秋空に銀色に光るB29がただ1機悠々と飛んできたのを見上げていた。青空をバックに光っていた姿は美しくさえ思われた。これが東京上空に現れた最初のB29で、半年後東京下町の大半を火の海にして焼き尽くす魔物の尖兵だったとは誰一人考え及ばなかった。B29はその後毎日昼ごろに定期便のように飛んできた。本格的な空襲が始まったのは11月24日、70機編隊で来た。最初の偵察から約2ヵ月しか経っていない。
少年工の仕事は、第1、2期はいざ知らず、あとで来たものは主として一般工の手伝いで、まだ独立して仕事できるほどではなかった。日給90銭で休みの日は給料が出ない。少し熟練してくると日給1円5銭に上がる。食事は切符制で、月のはじめに食券が渡される。それを失くすと食事もできなくなる。実際に食券を失くして食事ができなかった例が時々あったという。分けて上げたくても、自身が不足だったのだから、どうにもならなかった。給料は30円ぜんごだが、派遣になると加給が付く。しかし買いたい食品は手に入らず、ほかに用途もないから結構余っていた。のちには100円ももらっていた人がいる。
高座の少年工たちは、8月15日の終戦の放送を工場内で聴いた。雑音がひどくて内容がよく理解できなかったが(この期に及んでも小難しい漢語ばかり並べていた)、この朝は空襲がなかったし、どうやら戦争は終わったらしいことだけは分かった。しかし、xx海軍中尉は、皆を集めて、
「お前たちが一生懸命仕事をしなかったから戦局が悪くなったのだ。気合を入れてやる」
とまた勤務を命じ、夜業まで続けた。米軍の飛行機がもはや飛んでこないのが変だなあと感じながらも毎朝整列しては、工場へ向かった。そのうちに、各地へ派遣していた工員が、船橋から、太田から、名古屋から帰ってくる。
「何だ、お前たち、何をしているのだ。戦争は終わったんだぞ、負けたんだぞ」
とはじめて終戦を知る。軍人の頭の固さを知る一例である。
寮では出身地(庄単位)別に再編成が行われ、一時金が何百円(700-800円だった?)か支給されたほか、ガリ版刷りの身分証明が渡されて、電車、汽車はすべて無料で乗車できるようになった。そこではじめて横浜や東京へ行けた人たちも多い。焼け野原になったとは言え、大都市は田舎出身者が大部分だった隊員には魅力があった。勇敢な者は大阪まで兄に会いに行っていた。食事は継続して供給されていたが、食費を払うことはもうなかった。そんなにご馳走ではないが、少なくとも腹一杯食べられるようにはなった。困ったのは、倉庫の食塩が底をついて、塩気のない食事が何日も続いたことで、幹部が相談して近くの厚木飛行場までいって塩を積んで帰った。マッカーサーが厚木に到着する前だった。マッカーサーは8月30日に厚木に降り立った。
町の中は復員した兵隊服の男であふれて、いたるところでマーケットが開かれていたが、大根1本10円、するめ1枚10円と貨幣価値は円単位に跳ね上がっていたから、一時金をもらったといっても瞬く間に消えてしまうものだった。この時、もう要らなくなったゲートルなどを農家へ持っていくと喜んで食料品と交換してくれた。このような生活が4ヵ月半続いて、弟たちはその年の12月31日、横須賀から氷川丸で帰国した。帰る直前に脚をやけどしたので1等船室に入れられた。生涯はじめて、またおそらく今後も1等船室には縁がないだろう。またとない経験だった。
故郷に帰った弟は15歳になっていた。本来ならば新制中学を卒業する年であった。高座の約束が絵に描いた餅になったので、改めて中学を受験しなければならないが、公立の学校はすべて入試を終えており、来年まで待たなければならない。幸い、林献堂氏の長男(ケンブリッジ卒)が霧峰で私立中学を創設したのでそこへ入学できた。
しかし、このような幸運は誰にも訪れたものではなかった。農村出身の多くの人は年令と学資の関係で進学を諦めざるを得なかった。何よりも3年間の日本での生活で、日本語と母語の台湾語しか話せなくなって北京語に順応するのに苦労した。頭がよかったにもかかわらず、親の農業を継いで一生を終えた人も少なくない。それでも都会生れの人はまだましだった。少し歳がいってはいたが、順調に進学して大學を卒業し、国際舞台で活躍した人(山を愛し、3ヶ国語に堪能だった楊氏や短歌ですぐれた作品を数多く残した洪坤山さんなど)がいた。一方、国民党軍に志願させられて内戦で戦死したり、大陸で病死したりしたのもいて、それこそいろいろであった。いずれのケースでも日本政府は何ら処置をとっていない。原爆被害同様、彼らはもう日本国民ではないという理由である。一方、台湾の国民政府は、少年工を日本に協力した者として差別し、その技術を活用しようともしなかった。高座経験者で高座会が結成されたのは、戒厳令が解かれた1987年だった。しかし、ほとんどの人は60歳になろうとしていた。また、当時は皆日本名をもちいていたから、本来の姓名が分からず、連絡がつかなかった人もかなりいた。

映画「緑の海平線」はその間の事情をかなり伝えてはいるが、取材不足の部分もある。後世の人がそのまますべてを網羅した真実と誤解しないように、敢えて本稿をしたためた。もちろん、ここに書かれたこと以外にもなお8000人あまりの人が語りたくて果たせなかった部分も残されていることを十分理解しての上である。
映画を見ていて感じたことがあった。披露された手紙の字がきれいであったばかりでなく、文章がかなりの水準に達していたことである。いまどきの日本の中学生でもこれだけの文章が書けるのは何人もいないだろうと思った。弟に言わせると、少年工に志願したのは級長とか副級長クラスの人が多く、一つの国民学校から6,7名程度しか合格しなかったのだから、当然だとのことだった。
一つ不思議というか僥倖というか、あれだけ大きな建築物がなぜ爆撃に会わなかったかと言うことである。銃撃には度々遭遇したが(銃撃で六名死亡したし、爆撃では名古屋の三菱工場で直撃弾に当たって25名死亡した)が高座工廠は爆撃を受けなかった。急ごしらえの木造建築だから、爆撃でも焼夷弾でも一たまりもなかったにちがいない。工場、宿舎を通じて無事だったのは、全く奇跡というべきだろう。それに、あの危険な時期に何回かに分かれて日本へ輸送されたが、一隻も撃沈されなかったのも奇跡に属する。あるいは台湾の媽祖さんがはるばる海を渡って庇護したのかもしれない。
                         2007/12/25

参考文献;  保坂 治男; 台湾少年工 望郷のハンマー  1993/12月
       野口 毅 ; 台湾少年工と第二の故郷    1999/7月
       台湾高座会編集委員会;
              難忘高座情          1999/10月
       

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